@ 「創造主の栄冠を得るために、ひたすら目標を目指して走っている」と語る、パウロの
言葉から、クリスチャンの、目標めざして一心に走っていく生き方について考えたいと思います。
A パウロは、「真の割礼主義者とは、創造主の御霊によって仕え…肉に依り頼むことを
しない者」だと言いました。つまり霊的なクリスチャンは、自分の力でなく、御霊によって
主の働きに携わっていく者なのです。ところが、そこに妨げの霊が働きます。
ジョイフルクラブでは、初めの頃、集まって来た子どもたちが、信じても教会に?がらない
ということがありました。しかし、妨げが退けられてきてからは、信じた子どもたちが日曜日の
グレースタイムにも?がり、信じる心が強くされています。妨げの霊は、私たちが、主に心を
向けるのを妨げ、御霊によって仕えていくことを邪魔し、自分の我を主張させます。しかし、
妨げが取り除かれていくと、聖霊の働きが起こり、実が多く結ばれてきます。ですから、
私たちは、肉に依り頼んで努力するように働く妨げが退けられて行くと、ドーンと主の方に
焦点を合わせて、生きていく道が見えてくるのです。
B さて、パウロは、以前肉に依り頼む努力家で、ひたすら自分の栄光を求めていました。
しかしキリストを知ったことによって生き方が変わりました。彼は、キリストを信じてから、
キリストのために努力する生き方に変ったのです。なぜなら、『何とかして死者の復活の状態に
達したい』と思ったからです。この本当の生き方が分かったパウロは、かつての努力が無駄で、
その誇りは、ゴミのようだといいました。なぜなら、復活に達するために努力することが、
本当の努力と分ったからです。しかし、恵みのゆえにキリストによって聖とされた者が、なぜ
復活に達するため「努力する」必要があったのでしょうか。それは救われたクリスチャンの中に
「キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いから」だと言いました。せっかく、恵みに
よって救われ、聖とされたのに、その生き方においては、地上のことばかりに目を止めて、
欲望を神としているクリスチャンがいるからです。天に国籍を得たのに、御国を一心に目指して
いけないのか、とパウロは訴えているのです。即ちクリスチャンは、すべての人にキリストを
目指して生きていく献身という努力が求められているのです。
C しかし、多くのクリスチャンは、その献身が妨げられています。私も高一の時、信じて
すぐに献身の表明をしました。それは、イエス様が自分の命の存在の価値だとわかって、
この方だけに心を向けて生きて行こうと思ったからです。しかし、すぐにその考えが妨げられて
いきました。この世の価値は真逆で、学歴、金、地位が一番で、そちらの方がいいかのように
見せつけられたからです。しかしその妨げに対して、私は、どちらかを決めないといけません
でした。私は「創造主の栄冠を得るために生きたい」、又、何とかして「復活の状態に達したい」
と思い、主の方に向かうと決めました。パウロが、何故「後ろのものを忘れ、前のものに
向かって懸命に努力し」と言うのでしょうか。妨げがあるからです。だから、私たちはそれを
取り除かなければいけません。信じる前に、占いや、拝み屋などに行って契約を結んだもの
などは、信じてからも束縛します。そこに聖域をもうけず、すべて断ち切っていくべきです。
それが空っぽになって、はじめて御霊の満たしが来るのです。私たちは、何故イエス様一本に
心を定められないのでしょうか。それは怖いからです。また世に未練があるからです。
自分の得であったと思うものを無益と思えないからです。その未練を断ち切らせないように、
妨げの霊は働きます。ですから、これまで心を定めてこなかったこと、主の声を無視してきた
ことを悔い改めるべきです。そして、妨げの霊を追い出すべきです。そうでなければ、もう
遅いという時が来ます。
D これが最後のメッセージです。それでもなお、「自分は弱いから」、「臆病だから」と
言って不従順に身を委ねているなら、主は、「弱いからしょうがない」と言って許してくれる
でしょうか。パウロでさえ、「何とかして」と言っているのです。私たちは今、「目標を目指
して一心に走っていきます」という献身に向かうべきです。人から促されてではありません。
御霊によって促され、決心するべきです。この決心をする時、初めて「創造主の栄冠を得る
ために、目標を目指して一心に走っている」と叫ぶことができます。私たちの教会は、牧師と
苦しみを共にしてきたピリピの教会と同じ献身的な教会です。それなのに、今ここで取り
残されていいのでしょうか。今、御霊に促され、はっきりと献身の決断をしていきましょう。 |