『マグダラのマリヤの心で』
ルカ19章28〜40節
@ イエス様一本で生きていく生き方を実践していくために必要な心について学びたいと思います。
A さて、エルサレムに上って行かれる途中、オリーブ山のふもとに来たとき、イエス様は弟子たち
に、使いの指示を出しました。それは、「向こうの村へ行き、そこに入ったら、まだ誰も乗った
ことのないロバの子が繋いであるから、それを解いて引いてくるように」、というものでした。
もし私たちがこの指示を受けたとするならどうでしょう。「えっ、それって泥棒行為じゃないの?」
と、私たちの良心が働いて不安になり、たじろいでしまうのではないでしょうか。
弟子たちも同じように思ったのです。ですからイエス様は言われました。
「もし誰かが『なぜ解くのか』と尋ねたら、『主がお入用なのです』と、言いなさい。」と。
もし弟子たちが不安を持たず無条件で、「分かりました!」と即答できる心があったら、
ここまで言う必要は無かったでしょう。イエス様に対する信頼の心を試されているのです。
B では、無条件で「分かりました!」と言える心について考えてみましょう。使いに出された
弟子たちは、イエス様が云われたとおりであった事を体験し、「イエス様に無条件で信頼して、
そのままやればいいんだ。」と味わったことでしょう。私たちも、これまでの経験から、言われた
ことをそのまま信じていけば良いんだ、と頭では分かっています。しかし、イザとなると、「自分の
目で見て確認してから決めたい」とか、「納得出来たらそうしたい」とか考えてしまいます。
何故そうしてしまうのでしょうか。どこに問題があるのでしょうか。それは、私たちの心に、
「恥をかきたくない」、「責められたくない」、「馬鹿にされたくない」というような、自分の
身を守ろうとする心が、背後にしっかりとあるからです。この心を砕かないと、肝心な時に裏切る
ことになります。もし、「イエス様のためなら、恥をかこうが、馬鹿にされようが構わない」という、
イエス様に預ける気持ちがあったら、「分かりました」と、直ぐに従うことが出来るでしょう。
その心を持ったのがマグダラのマリヤでした。イエス様が十字架につかれた時、イエス様の側にいた
女です。特にマグダラのマリヤは、姦淫の場で捕まり、石打の刑にされようとしているとき、
イエス様が自分に向けてくれたことばと、行為によって、「この方は他の人々とは違う!」と、
初めてイエス様の心が分かったのです。それは、イエス様が自分の心に触れてくれた瞬間でもあり
ました。その時、「この方のためだったら、どんな目にあってもかまわない!」という心を持った
のです。
ですから、十字架に付けられるとき、「ユダヤ人たちから、どう見られようともかまわない。
自分はこの方のそばにいたい。」と、最後まで離れなかったのです。弟子たちも、イエス様の復活に
出会って初めて、イエス様が言われた通りだと分かって感動し、この方に信頼し、言われた通りに
すればいいんだと悟ったのです。それは、イエス様一本の生き方であり、心の伴った生き方です。
C 私たちがイエス様を信じるとき、聖霊の働きがあったので信じることが出来ました。
しかし、信じた後は、信仰を働かせて、自分の意志で決断を表し、行動することを求められています。
そのためには、自分の損得勘定を砕かなければ、イエス様一本で生きていくことは出来ません。
魂を導くことも出来ません。ですから、おどおどする心を捨て、自我をぶち壊して、イエス様に
信頼しきって、信仰の素晴しさを味わっていこうではありませんか。 |
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