悪は、神の中に存在するのではなく、罪を犯す可能性を秘めた人間の自由意志の中にあります。
それは、人間が100%の自由意志(選択権)を頂いているのに、善と悪のどちらかを選び取る
自由を持たないなら、それは意味のない自由意志となります。
すると、ある人は、「神はどうして自由意志と、悪のない世界を造らなかったのか」と
問い掛けます。しかし、その問い掛けは、「どうして色のない色を造らなかったのか」とか
「何で丸い四角を造らなかったのか」と聞くようなものです。
それは、自由意志に対する自己矛盾です。
又、ある人は、「そんなことを言うのなら、神はどうして人間に自由意志を与えない世界を
造らなかったのか」と問うでしょう。もしその通り、自由意志のない人間を創ったら、石と同じに
なります。もし、人間に自由意志がなければ、憎悪のない世界が実現したかも知れません。
しかし、それでは愛も存在しないことになります。
なぜなら、愛は、前提としての選択の自由がなければなりません。
ですから、悪とその結果である苦難の責任は、人間にあるのです。
神は自らの善によって完璧に人間を創りました。しかし、それを台無しにしたのは人間の方です。
もし、自由意志による愛の選択がなかったら、動物をペットとして交わる人間に
満足があるでしょうか? 犬も自由意志によって飼い主を愛するのです。
その愛に、かわいさを覚えるでしょう。
同じように、人間も自由意志をもって、神を愛するのです。
そこに、神と人との真の交わりが生まれてくるのです。罪を犯したら、自分の自由意志を用いて
悔い改め、もう一度キリストによって愛の交わりの中に入れていただきましょう。
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