『人間の生きる価値は、道徳にあると思う人に』
世界は、人種と宗教観の違いで、何世紀もの間、争いが続いてきました。
ですから、「何を信じるか」ということより、道徳的な生活をして隣人を愛していくことの方が
重要ではないかと、考える多くの人々がいます。たしかに、個人の信条よりも、互いに平和に
暮せる方法を見出すことは重要でしょう。そこで、人生のすべては道徳であると言うなら、
「道徳とは何か」ということを定義しなければなりません。
しかし、道徳は、その国柄、その人の生活レベル、民族の特徴、置かれた環境などによって
全て変ってきます。
例えば、日本人はくじらを食べることに罪意識はありません。しかし、他国では、めくじらを
立てて非難します。牛を殺して食べても、くじらを殺せば非難されます。人間社会の道徳に
絶対はありません。それは、個人においても皆違います。
すなわち、超越的なしっかりとした道徳的理論は、創造主の存在をおいてはないからです。
キリスト教では、どんなに素晴らしい模範的な人生を歩んだとしても、人間が神の性質や基準
に追いつくことは絶対にできないと教えています。だから、他人と比べた上で、「自分は
道徳的な人間だ」といくら主張しても、神の完璧な道徳律の前では、人間はみな落第です。
ですから、人は、みな創造主の赦しと恵みが必要なのです。人の犯しうる最悪の不道徳は、
「自分は神を必要としない」と宣言することです。人間が道徳を重んじることは大切です。
しかし、独力で善を追求することは、自分で自分を贖うことです。もし自分の全ての罪を自分
で贖うとするなら、何を差し出せばよいでしょうか? 自分の命しかありません。
そこで、「自らの力や努力で天国に入ることはできない。」という聖書の驚くべき真理の背影に
は、創造主ご自身が、人を贖うために、事を起こして下さったことが記されているのです。
すなわち、イエスは、悪人を善人に変えるために、この世界に来たのではなく、生まれた時から
罪人である人間の罪を贖い、その罪人を死からよみがえらせるために来られたのです。
だから、天国に行けない人間を、創造主の御子の贖いの代価によって、たとえ殺人者で
あっても、社会的に蔑まわれた女であっても、創造主の憐れみの中に入れられるのです。
神の義は、人間の道徳力で勝ち取ることは出来ないからです。
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