@ 今朝は、信仰の戦いについて、殊に、自分自身と戦うことについて考えたいと
思います。
A さて、ユダ書は、クリスチャンたちに向けて書かれた手紙です。
その目的は、信仰のために戦うことを勧める手紙でした(3節)。
というのは、不敬虔な人々が忍び込んできて、創造主の恵みを放縦な生活に変えて
しまったからです。放縦というのは、主の御言から離れて自分勝手な欲望のままに
生きていくということです。本来の人間の肉の性質の中には、自分の思い通りに
生きていきたいという身勝手さがあります。
しかし、御言によるなら、主の御心の中に生きていくということが、クリスチャンの
大前提なのです。ところが、主の御心ということは自分たちの思い通りではありませんから、
ここに戦いが起こって来るのです。私たちは、日常生活でいつもこの戦いをしている訳で、
時には、自分の思い通りにする、と決めてしまうこともあるのです。
そこで、主の御心の中に生きていくために信仰の戦いを、ここで勧められているのです。
B では、信仰の戦いについて考えてみましょう。
ユダが指摘している不敬虔な人々が忍び込んでくるというのは、世の常にあることです。
人間は、本能では絶対者(創造主)は居るだろうなと思っても、自分を支配する神を
認めたくないと思う感情が働くのです。それでも、自分に御利益をくれる神は信じたいと
思っています。この思いも感情です。もし理性的に考えるなら、自分は偶然に
生まれてきたのではなく、自分を生まれさせた方がいると分かるでしょう。
この世界の自然の法則や、自分の命の中で自分が造ったところは一つもありません。
ですから、生きていける状況を整えた方がおられるということは、当然なことです。
ところが私たち人間は、自分の思い通りに行きたいという、わがままな感情を持っており、
その感情が理性的な思いを越えて、「感情がついていけないから」、と言って、自分の道に
行くのです。特に女性は感情に操られやすいものを持っていますから、サタンはまずエバの
所にやって来て誘惑したのです。またユダヤ人が今なお律法にしがみついて、
イエス・キリストのもとに来ることができないのは、律法を主から貰ったという誇りが感情の
中に働いているからです。このように、自分の感情に支配されていくなら、信仰はどんどん
おかしくなって主から離れていき、「自分の力に頼ってやるしかない」といって行き詰まり、
恥が泡となって吹き出してくるのです。自分の力でなんとかしようとする戦いは、
なんと虚しい戦いでしょうか! 私たちのこの感情は一生無くなりません。
しかし、この感情から離れることはできます。
まず、自分の感情をありのまま主に申し上げることです。
それからテーブルに、理性的な信仰の考えを置くのです。
そして、二面性の両方を述べてから、「あなたのお言葉を、そのまま聞きますから
教えてください。」、と御霊に聞くのです。このとき主は、私達の感情の思いも知った上で、
天から見た公平な考えを語ってくださいます。
ですから、そのとおりだと受け入れるなら、心に平安がやってくるのです。
こうして、安心と平安を持って歩み出すことができるのです。これが戦いの勝利です。
C 私たちは、自分の中に感情があるという現実を認めるべきです。
しかし私たちは、感情にあっても、主に対して生きているものですから、
感情を主に明け渡して、主に聞いて生きていく道を選んで行きましょう。
それが、信仰の勝利者となる道ですから。 |