@ 今朝は、イスラエルが陥ったつまずきの石について考えます。
そして、つまずきからの脱出は、自分をリセットすることであることを学びたいと思います。
A さて、イスラエルの民は、主の民として創造主のことば(律法)を与えられました。
それ以来、人の努力による義を得るために律法を追い求めました。
しかし、彼らは義に到達できませんでした。
ところが、義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。
何故でしょうか? 異邦人は信仰によって追い求めたからです。
イスラエルの民は行いによるかのように追い求めたので、「つまずきの石、妨げの岩」に
つまずいたのです。
B では、この「つまずきの石、妨げの岩」とは何かを考えながら、私たちの信仰生活の中で、
何が「つまづきの石」となっているのか見ていきたいと思います。
先ず、イスラエルにとってのつまずきの岩とは何だったのでしょうか。
パウロは明言しています。
それは、イエス様ご自身です。イスラエル人は、「主を仰ぐことによって追い求めることを
しないで、行いによるかのように追い求めたからです。」彼らの誇りは、創造主によって
戒め(律法)を頂いていることでした。ですから、戒めを守ろうとしていることが、
自分の義となり、守っているか、いないかは別の問題でした。その結果、守ろうとして真面目に
生きていると思っていることが自分の義となりました。さらに、それを認めてもらうために、
外側の行いを飾ろうとしたのです。しかしイエス様は、彼らの偽善を見抜かれて言われました。
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。白く塗った墓。外側は人に正しく見えても、
内側は偽善と不法で一杯だ。」と。彼らは、真面目に生きてこようとしてきた過去を
全否定されたことが赦せませんでした。到達していなくても、努力してきたというメンツと
プライドが、イエス・キリストの指摘に反発したのです。
その結果、「イエス・キリストを殺せ!」となり、十字架につけてしまったのです。
実に、人間の罪がキリストを殺したのです。
それでは、誰が救われるのかというと、私たちは罪人だからダメなのかというとそうでは
ありません。主を信じ仰ぐ心があるなら救われるのです。なぜなら、イエス・キリストが罪の
贖いを全部するために、来て下さったからです。即ち、私たちは、何も出来ない者で、救って
もらうしかない者だと認めるところから始まります。
ところが、クリスチャンは、信じてからもなお、自分の正しさや行いに頼って生きて
行こうとします。実は、それらが「つまずきの石」となって、わずかばかりのプライドを、
ゼロにすることが出来ないのです。また、自分の情けない姿を見たとき、倒れたくないと自分に
頼って自分の力で何とかしようとしてあがくのです。自分の力により頼もうとするその心が
「つまずきの石」となって、主を仰ぎ、より頼む心を失ってしまうのです。
「自分の力や努力や行いに頼ろうとする習慣が間違っている」と言われているのです。
私たち人間は皆罪人であり、何もない空っぽの器ですから、「主に信頼せよ。
主が成し遂げて下さる。」という心でやっていくべきなのです。
C 私たちは、自分の出来ないことを求められると、プライドやメンツや信用などを失うのが
怖くなって逃げ出してしまいます。確かに世のやり方では失敗したら終わりでしょう。
しかし、イエス様にあっては、私たちの力のなさを100%認め、間違っていましたとゼロに
するなら、リセットすることができ、主を信頼する信仰の心が、また生まれてくるのです。
私たちはひたすらイエス様に望みを置き、自分の傲慢を砕いて、つまずきの石につまずくことが
ないようにしましょう。 |