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2011年5月15日



価なしに義と認められる救い


ロマ書3章21〜26節




  

@ 今朝は、「価なしに義と認められる」というクリスチャンの救いが、

どんなに凄いことかを学びたいと思います。

A さて、人は、自分の人生の土台を自分の行いに置いて生きています。

過去において自分がどのように生き、行動してきたのかを人前に見せ、

このようにやってきたから成功したのだと誇ります。

確かに、自分の正しさをいつも認めてもらえる生き方が出来ればいいのですが、

そうではありません。

私たちはむしろ、隠れたところでは、卑怯な態度をとったり、ごまかしたり、いろいろな悪さを

してきた自分を知っています。ただそれを自分で覆い隠したり、また思い出そうとしていない

だけです。もし、過去を映像で映し出すなら、人は自分が誇れるような者ではないことが

分かります。にもかかわらず、世の中では、少しでも自分の優位性を演出し、

人に認めてもらいたいと心を砕いているのです。


ところが
創造主の子であるイエス様は、この世あって、鞭打たれ十字架につけられることに

なっても、全能主としての力を行使されませんでした。

それは、私たちが「価なしに義と認められる」ための贖いを成し遂げるために、損得抜きで

来られたからです。


B では、
イエス様の損得抜きの生き方を見ながら、私たちの生き方について

考えてみましょう。


私たちは、エルサレムの町をこの目で見てきましたが、二度と行きたくないと思いました。

なぜなら、イエス様の時代の風景にほど遠い町並みであるばかりか、それ以上に、偶像に満ち、

悪霊の巣窟と化した町であったからです。イエス様自身も、ご自分の時代のエルサレムを

見られて嘆かれました。外観の違いはあっても、来たくない場所であったことでしょう。

聖なる御子が、創造主から離れて傲慢になった人々で満ちている地に、

あえて、被造物である人の形を取って来られたのです。案の定、虫けらのように苦しめられ、

殺されていきました。最後の最後まで、被造物である人間ににメチャメチャにされ、

十字架にかけられて死んで行かれたのです。私たち人間の罪の身代わりとなるためには、

そこまでしなければならなかったのです。

しかし主は、私達に「わたしはそこまでしたのだから、おまえたちも真実な生き方を

しなさい。」とか、「そこまで辛抱したんだから、絶対裏切るなよ!」というようなことは

一切お求めになりませんでした。
ただ価なしに無条件で、「信じるならそれで良い」と

受け入れてくださったのです。

正に、創造主であられるイエス様ご自身が、損得抜きで地上に来られ、損得抜きの生き方を

貫かれたのです。それ故に私たちは、「価なしに義と認められる」という恵みを頂いたのです。


C 私たちはエジプトに行って、クフ王のピラミッドやスフィンクスにハッキリと地層があり、

洪水後に造られたものであることを確認し、聖書の通りであることを確信してきました。

また、損得抜きの、キレイ事の生き方が通用することを、旅行を通し、また旅行直後の葬儀を

通してハッキリと分かりました。ですから、
こんな罪人のために、損得抜きで十字架にかかり、

極限まで苦しみを受けて行かれたイエス様の心を私たちの心として、益々全能主を信頼し、

損得抜きの生き方を貫いていきたいのです。


この生き方でよいのだと確信を持って、前進していきましょう。

                                        

  
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