『走るべき道を走り尽くす』
使徒20章17〜38節
@ 今朝は、パウロがエペソの長老たちへの告別のメッセージから、イエス・キリストにあって、
「走るべき道を走り尽くす。」という生き方について学びたいと思います。
A さて、パウロは、第三次伝道旅行の際に、御霊に感じてエルサレムに行く決心をしました。
その道中、エペソの長老たちを呼び寄せて語り出したのがこの告別のメッセージです。
「御霊に迫られてエルサレムに行くけれども、そこでは、投獄と患難が待ち受けていると聖霊に
告げられてます。しかし、自分の行程を走り尽くし、福音を証しする任務を果たし終えることが
できたら、私の命は少しも惜しいとは思わない」。と言い、
「自分が去った後、凶暴な狼が入り込んできて群れを荒らすようになるから、目を覚まして、
教えられたことを忘れないで心を留めてやってほしい」と語りました。このパウロの心は、
書簡でも同じメッセージとしてハッキリと語られています。
ですから、このメッセージは私たちにも、「やるべきことをやり終えなさい。」という生き方を
するようにと勧めているものです。
B では、パウロの生き方から学んでみましょう。
パウロは言っています。「自分はすでに捕らえたなどと考えているのではなく、後ろのものを忘れ、
ひたむきに前のものに向かって進み、創造主の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っている
のです。」それは、キリストを得たことの素晴らしさのゆえに、それまで自分の誇りとなっていた
ちりあくた
ものが塵芥と思わされ、信仰によって創造主から与えられる義を持つ望みを得たので、
何とかしてイエスと同じ復活に達したいと追求しているのです。ですから、決勝点がどこかわから
ないような、空を打つような拳闘をしているのではなく、朽ちない冠を受けるために走っている
のだと言っています。
これは、数々の試練の中にあって主に仕え、ひたすら前に向かって前進してきたパウロの証し
です。パウロは自分の任務を果たし終えました。そこには、自分の体を打ち叩いてでも従わせる
という努力があったのです。私たちは決勝点を目指して走っていきます。
しかし一等になってテープを切れるかと言うと、そういうわけでもありません。
しかし、私たちの努力は未信者の場合とは異なります。確かに世の中では一位になることこそ
価値があります。しかし私たちは、テープを切ることを目指して行きますが、たとい二位でも、
「イエス様に手を引かれてやり終えた!」、のなら、そこに価値があります。
パウロは、一等となるためにテープを切る気骨を持って、わざわざ患難の中にさえ入って
いきました。私たちも、パウロと同じ勝利を味わって、生涯を終えたいと願っています。
そのためには現状に満足せずに、前に向かってひたすら努力し、追求していきたいのです。
C そこで、私たちが、主に役立つ働き人となっていくためには、自分の肉の弱さを乗り越えて、
主に役立つ者に変えていただかねばなりません。その為には、主が必ず助けて下さると信じて、
自分の体を打ち叩いてでも従わせるという努力が必要です。そうするなら、主は変えてくださり、
用いてくださいます。そして、パウロと同じスピリットを持って、走るべき行程を走り尽くして
行きたいのです。
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