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2010年 NO.331





                           

                           
『聖書解釈について』




「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない。」(Uペテロ1:20) 

聖書は、私的解釈を施してはならず、そのまま受け止めて信じ、信頼していくものです。

しかしながら、聖書は、全く相反する内容がいくつも書かれていますので、そのまま受け止めて

信じていくことが、むずかしいと感じる内容があります。

例えば、ヨハネ317では「さばくために来たのではない。」と言われ、

ヨハネ939では、「さばくために、この世に来られた。」とあります。

これは相反する内容ですが、両方共真理です。しかし、人間は真理は1つであると決めかかり、

統一して解釈しようと考えて、私的解釈に陥ってしまうのです。

世の終りにあるとされるクリスチャンの携挙についても、主の再臨と同時に起る出来事と

見る人と、空中再臨と地上再臨を分けて考える人がいます。それは、御言が両面的に受け取れる

書き方がされているからだと思います。しかし、私たちは、御言を二面的に(とら)えることが

出来るなら、その二面性を、そのまま受け取っていくべきです。


携挙が主の再臨と一連の出来事なら、クリスチャンは患難時代を通ることになります。

又再臨が空中再臨と地上再臨を分けて受け取るなら、患難時代の前にクリスチャンは引き上げられ

ることになります。ここで、私たちは、聖書の解釈を決めてしまわないことです。

もし、患難時代の前に携挙があると決めてかかり、クリスチャンが患難時代を通り、獣を見ること

になったら、大慌てすることになります。

しかし、患難時代を通る(黙14章を携挙と考える見方)と考えていて、患難前に引き上げられた

ら、「ありがとうございます。」とホットします。

ですから、解釈を決めてかからず、二面性の解釈が出来るなら、へり下って二面性を受け止めて

いくべきです。
私たち知性は、創り主より賢いというわけではありません。だから、人の知性に

頼る聖書解釈は、慎むべきです。御言をそのまま受け取り、そのまま信じていきましょう。








                           

    
 



     
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