「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない。」(Uペテロ1:20)
聖書は、私的解釈を施してはならず、そのまま受け止めて信じ、信頼していくものです。
しかしながら、聖書は、全く相反する内容がいくつも書かれていますので、そのまま受け止めて
信じていくことが、むずかしいと感じる内容があります。
例えば、ヨハネ3:17では「さばくために来たのではない。」と言われ、
ヨハネ9:39では、「さばくために、この世に来られた。」とあります。
これは相反する内容ですが、両方共真理です。しかし、人間は真理は1つであると決めかかり、
統一して解釈しようと考えて、私的解釈に陥ってしまうのです。
世の終りにあるとされるクリスチャンの携挙についても、主の再臨と同時に起る出来事と
見る人と、空中再臨と地上再臨を分けて考える人がいます。それは、御言が両面的に受け取れる
書き方がされているからだと思います。しかし、私たちは、御言を二面的に捉えることが
出来るなら、その二面性を、そのまま受け取っていくべきです。
携挙が主の再臨と一連の出来事なら、クリスチャンは患難時代を通ることになります。
又再臨が空中再臨と地上再臨を分けて受け取るなら、患難時代の前にクリスチャンは引き上げられ
ることになります。ここで、私たちは、聖書の解釈を決めてしまわないことです。
もし、患難時代の前に携挙があると決めてかかり、クリスチャンが患難時代を通り、獣を見ること
になったら、大慌てすることになります。
しかし、患難時代を通る(黙14章を携挙と考える見方)と考えていて、患難前に引き上げられた
ら、「ありがとうございます。」とホットします。
ですから、解釈を決めてかからず、二面性の解釈が出来るなら、へり下って二面性を受け止めて
いくべきです。私たち知性は、創り主より賢いというわけではありません。だから、人の知性に
頼る聖書解釈は、慎むべきです。御言をそのまま受け取り、そのまま信じていきましょう。
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