@ 今朝は、「主に信頼する」と心を定める事について学んでみたいと思います。
A さて、主に信頼すると心を定める事は大事なことです。
心を定めなければ信仰が生まれてこないからです。
迷っていたり、疑っていたりしている状態では、喜びも賛美もありません。
例えば、弟子たちがイエス様と共に舟で湖を渡っているとき、大暴風が起こって
水をかぶった時のことです。イエス様はそのような状況にあっても、
ぐっすりと眠っておられました。
ところが弟子たちは恐れてあわてふためきイエス様を起こしながら言ったのです。
「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」。
主は暴風を鎮められて言われました。「なぜこわがるのか。信仰の薄い者たちだ。」と。
彼らの心を定めていない不信仰な心を否定されたのです。
ところが、百人隊長に対しては、このように言われました。
「わたしはイスラエルのうちで、このような信仰を見たことがない。」と。
B では、百人隊長の信仰から学んでみましょう。彼は異邦人でしたが、イスラエルに対して
好意的な人でした。彼のしもべが病気になったとき、彼は直感的にイエス様にお願いするしか
ないと思ったのです。この時点で、百人隊長のイエス様に対する思いが
どのようなものだったのかは、8,9節の彼の言葉に表されています。
「イエス様には権威がある方だから、そのおことば通りになる。」と。
故に、病も、「おことば一つで癒やすことが出来る」、と確信していたのです。
ですから、「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」と言ったのです。
普通は、「イエス様に来て貰えたら直るだろう。」と考えます。しかし彼は、隊長という権威の許に
ある者としての体験から、自分の下にある兵士は、「行け」と言えば行くし、
「来い」と言えば来る。またしもべに「これをせよ。」と言えば、
そのとおりにする。
だから、「権威在るイエス様が言われたことばは、そのとおりになる」と、
イエス様への信頼を持ち、ここに心を定めたのです。イエス様はその心を喜ばれました。
その信仰こそがイエス様の求めておられる信仰だったからです。
「イエス様にはお出来になる。」と、そのまま信じる姿勢が正しいからです。
そして言われたのです。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」。
しもべは、ちょうどその時癒やされました。イエス様は、その人の信仰の量りに従って事をして
下さるお方です。ミラーさんも、困難の中にあっても、「主はして下さる」という信頼を
持ち続けていきました。主はその信仰の通りにして下さったのです。
それによって、「信じればいいんだ。」と心を定めていく生き方は正しいことであると、
主は確かなこととして下さいました。
C イエス様は、「子どものようにならなければ神の国に入ることは出来ません。」と
言われました。幼子は、理屈抜きで、疑わずに受けとめるからです。
大人になると、単純に信じることが出来ません。しかし私たちは、幼子のように、
単純に当たり前のように主を信頼すると心を定めて行きたいのです。
それは罪深い自分の姿を見て、「信じても自分ではダメだ。」引くのではなく、
どんな罪人に対しても変わらぬ愛を持って助けて下さるイエス様に目を向けていくのです。
自分の善し・悪しで、イエス様の力がコロコロ変わることはないからです。
私たちは罪人だからこそ、一途に、イエス様に100%信頼していきましょう。
幼子のようなランドセルを背負った単純な信仰を、生涯現わしていきましょう。 |