『信仰のイメージ』
第Tコリント10章23〜11章1節
@ 今朝は、コリントの聖徒達にアドバイスしているパウロの心から、信仰のイメージについて
考えてみたいと思います。
A さて、コリントの教会はいろいろな問題のある教会でした。そんな彼らに対して勧めている
パウロの倫理基準やその動機は、「自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」と、
語られているところにあります。それは、パウロの他の手紙にも一貫して言えるのですが、
これは、パウロの純粋な信仰の心を現し、また、その高い倫理性が、パウロの生涯を貫いています。
それはまた、私たちの教会も求め続けてきたものです。
ですから、その信仰のイメージを心に焼き付けたいと思います。
B では、パウロの純粋な信仰について考え、イメージしてみましょう。
これまで私たちは、「聖書のみことば通りに生きて行きたい。」と願い、様々な取り扱いと御言の
学びをしてきました。
この心の原点は、私が、イエス・キリストを救い主として信じた時にさかのぼります。
私は、二つのことを味わいました。
一つは、それまでは、全ての問題を周りの人の所為にし、他人が悪いと考えていたことです。
しかし、その原因はすべて自分にあったのだと気付かされました。
もう一つは、そんな自分が、イエス様の救いに預かったことによって、「自分のことはもうどうでも
いい。これからは、ただイエス様のために生きていけばいいじゃないか。」という思いに
変えられたことです。それまで無かった思いが込み上がってきたのです。
そして、「自分の利益を求める必要はないんだ。純粋に主に従っていこう」と、晴れ晴れとした、
クリアな心に満たされたのです。
ところが、すぐに悪魔のささやきがあり、「もし、イエス様に無条件で従うと言うなら、アフリカの
奥地に宣教師として行けと言われたら、行かなければならないぞ。」と共に
「そんなことおまえに出来るのか?」と言われ、「出来ない。」という恐れを持ったときに
「自分の利益を求めず・・・」という思いも消えてしまったのです。
それ以来、あのクリアな思いは甦ってきませんでした。
ただ、幻としてのイメージが心に残っただけです。ですから、それからの44年間は、
「自分の利益を求めず、キリストのために生きていけばいいのだ。」という幻を求めてきました。
しかし、それはキレイ事の世界ですから本音と建て前とを使い分けて生きていく矛盾の中に
ありました。しかし、パウロの生き方は、キリストのためだけに生きており、その純粋な心が
伝わってきます。彼は言います。「偶像はないのだから、ささげられた肉を食べても
恐れる必要はない。ただ、それを見てつまずく人がいるなら、その人の良心のために今後一切
肉を食べてない。」。と、本気で自分の利益を求めず、神の栄光のために生きて行った人でした。
そこで、パウロの生き方を私たちも本気で見習って生きていくために、もう一度、初めのイメージに
帰り、その生き方に帰ろうと思うのです。
この生き方を始めていくためには、最初のイメージに立ち返る必要があります。
C そこで、私が味わったあのイメージは、聖霊の働きによって救いに預かった人なら、
皆知っていることですから、そのイメージをもう一度、心に焼き付けられたなら、
「主の栄光のために何でもしたい。」というイメージがみなさんの心に再び帰ってくるでしょう。
そして、あれから、数十年間の信仰の経験を積んできた私たちですから、もう悪魔のささやきに
出会っても、退くことはないでしょう。
今こそ、パウロさんのように、自分の事を求めず、ひたすらキリストの為に生きていく人生を、
心に焼き付けられて、スタートさせて行こうではありませんか! |
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