@ 今朝は、十字架を目前にしたイエス様のゲッセマネの祈りから、私たちも神の御心に
従おうとする時に、心の決断と心の定めが必要となることを学びたいと思います。
A さて、イエス様は、十字架につけられる日の夜中に、ゲッセマネの園で祈られました。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願う
ようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と。
ご自分の弱さをさらけ出し、血の汗を流して祈られたイエス様の苦しみに胸が痛みます。
又、同時に私たちは、慰めを覚えます。なぜなら、神の御子の中に、私たちと同じ肉を持たれた
弱さを見るからです。神の御子であられるにもかかわらず、私たちの罪の身代わりとなるために、
私たちと同じ罪深い肉をお取りになり、罪の呪いと屈辱が迫ってきたとき、恐ろしさのあまり、
「この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。」と逃げたい気持ちに襲われたのです。
しかし、三度目の祈りを捧げられたときには、心を定められ、いっさいの恐れを払拭されて、
毅然と十字架に向かって行かれたのです。
B では、ゲッセマネの園で、三度の祈りをされたイエス様の心をについて見てみましょう。
まず私たちがハッキリと意識しなくてはならないのは、イエス様の所にも悪魔はやって来たという
ことです。宣教開始の前にも、神の御言を使って誘惑してきました。そして今、私たちと同じ血と
肉を持たれたイエス様に、恐怖心を抱かせるために悪魔は襲いかかってきました。「神の子の
くせに、人間に唾され、傷つけられ、むごたらしく十字架の上で恥を受けるのだぞ。・・・」と。
悪魔はささやきを浴びせました。実は、私たちもいつも、このようなささやきを受けています。
そして、悪魔は御霊の思いとは正反対の方向へ私たちを誘うのです。
しかし、私たちは、それを悪魔の声だと気づかずに、自分の思いの中に入れてしまうのです。
だから、悪魔の策略に引っかかってしまいます。しかし、それが悪魔から来ていると分かって
退けるなら、そのささやきは断ち切ることが出来ます。
イエス様は二度目にこう祈られました。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ
杯でしたら、どうぞ御心の通りをなさってください。」と。御心のままに・・・という祈りは、
悪霊の脅かしから解放された状態を表しています。しかし、悪魔が退いたら元気モリモリに
なるかと言えばそうではありません。依然、罪深い肉を持つ者として、もう一度同じように
祈らなければなりませんでした。脅かしはストップしても、肉の弱さは現実にあり、
まだ逃げたいという気持ちはあるからです。
そこで自らの信仰によって決断しなければならないのです。
「肉の弱さに、立ちたくない。主の御心に立つ。」という決断です。
そのためには祈りが必要なのです。もし弱さを見続けるなら決断は出来ません。
しかしイエス様は、父なる神への祈りと助けによって決断し、心が定まったのです。
それは、三度目の祈りが終わったとき、「時が来ました。立ちなさい。さあ、行くのです。」と、
きっぱりと心を定められた状態に変わられたからです。「このために来たのだ!」と言う姿勢に
立たれたのです。もし私たちも、主の御心に従おうとするなら、この心の決断と心の定めが
必要なのです。
C 私たちは、悪魔の脅かしによって、自分自身の弱さを見ます。
そして「ダメだ。出来ない。」と、逃げて問題解決をしようとしてしまいます。
しかし、私たちに逃げるところはありません。神の御手は天の果てにまであります。
ですから、私たちも、イエス様のように肉の心を砕いて、「分かりました。」と決断し、
心を定めて御心に従うのです。この心の定めなくしては平安は決してありません。
この心の決断と、心の定めによって、イエス様のように勝利の道に歩みましょう。
これこそが、主の御足の跡に従うことです。 |