『砕かれた心』
第Tテモテ6章1〜12節
@ 今朝は、奴隷に対して語られた主の御言を通して、私たちが如何に「砕かれた心」をもって
仕えていく事が、主に喜ばれる生き方であるかを学んで行きたいと思います。
A さて、私たちにとって、不当な苦しみを受けることはイヤなことであり、許せないことです。
ところが聖書では、「横暴な主人に対しても、また不当な苦しみを受けたとしても主人に従う
ように」と語られているのです。聖書は、「そこまで言うのか!」という、徹底した世界です。
しかし、それを現実に実践されたのがイエス・キリストです。イエス様は、神の御姿であられる方
なのに、ご自分を無にし人間と同じようになられました。そればかりか、苦しめられ、ののしられ、
嘲られましたが、ののしり返すことはせず、最後まで従い通されたました。この徹底ぶりこそ、
真実な生き方の模範です。それは、私たちにその足跡に従うようにと模範を示されたのです。
ですから、私たちも、主と同じ心を持って歩むなら、神に喜ばれる者となるのです。
B では、仕えていく心について考えてみましょう。「くびきの下にある奴隷は・・・」と、
ありますから、奴隷制度が現実に存在していた時代の中で語られていたことです。パウロは、
奴隷に対して、「自由になれるならなりなさい。」と言っていますが、神の前にあっては、
「自由人であろうと奴隷であろうと気にするな。」と言っています。それは、キリストにある者は、
この地上に幸せの土台をもたないからです。クリスチャンは、キリストと共に死んだ者であり、
キリストと共に天に国籍を持ちました。ですから、地上のことは、二の次でいいのです。しかし
ながら、アダムの罪の子孫として生まれた私達は生まれながらに、神の考えに従うより、自分の
考えや自分の判断に立つことを選び、それを自分の権利としてきました。ですから、無条件で従う
ことを、極端に嫌う性質を持っています。しかし、それは悪魔から騙されて得た「罪の権利」で
あり、悪魔の策略でした。悪魔は、人間を神から離し、反抗させることが目的だったのです。
しかし、クリスチャンは、イエス・キリストによる罪の贖いを受け取り、神様の許に引き戻された
時から、この地上で生きる価値観が変わったのです。それはこの世ではなく、「永遠」に価値を
置いて生きていく者、即ち、本来のエデンの園で生きる者と変えられたのです。
ですから、この地上にあっても素直に、「神の見方・考え方」で生きていく生き方を始めるべき
なのです。しかし、生まれながらの、肉の性質を持つ私達は、なお「自分の考えや判断で生きて
いきたい。」という思いの板挟みとなって苦しむのです。アブラハムも、「イサクをささげよ。」
と神に言われたとき、神の言葉と自分の考えとしての感情が働いたでしょう。しかし彼は、肉の
感情を退け、「主は最善をしてくださる。」と主に信頼したのです。これこそ、肉の考えを砕いた
「砕かれた心」だったのです。自我を砕いて従っていくことが、エデンの中に生きる者とされた
私達の生き方なのです。ですから、たとい不当な苦しみを受けても、主の故に従っていくことに
価値があるのですから、肉の心を砕いて、主の考えに従って行くなら、神は喜んでくださるの
です。
C 多くの人々は、「そこまで求められたら・・・」と言って去って行ってしまいます。しかし、
「しょうがない。」と、自分の考えや都合を優先するなら、自分の出来る世界のことしか味わえ
ません。自分の我が信仰を妨げ、さえぎってしまうからです。しかし、その我を砕き、悪魔から
得た権利を放棄し、「主のみ心に従ってやっていきます。」と主に信頼するなら、主が成し遂げて
下さるのです。ですから、「肉の心を砕いていく」と決断し、百%自分の主権を使って、百%主に
従っていきましょう。 |
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