@ 今朝は、聖霊のバプテスマを受け、力ある働きを始めていったときの心構えについて
学びたいと思います。
A さて、三節には、「主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明を
された。」とあります。これは正に、マルコ伝16章20節のみことば「主は彼らと共に働き、
みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」の成就です。
多くの人々が集まり、救われていったのは、実に、主がみことばに伴うしるしをもって聖霊による、
しるしと不思議なわざを行われたからです。この出来事はセンセーショナルで、その働きをしている
者たちは、非常に目立った存在になっていったことでしょう。私たちも働きを始め出した時、
どのように対処していけばいいのでしょうか。
B では、パウロとバルナバはどのように対処していったのでしょうか。彼らの対応を見ながら、
考えていきたいと思います。パウロがルステラという町で福音を語っているとき、生まれつきの
足なえで、一度も歩いたことのない人がパウロの話に耳を傾けていました。彼の内に信仰があるのを
見たパウロは、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言いました。
すると彼は飛び上がって、歩き出したのです。一気に、人々の関心がパウロに集中し、
尊敬と憧れの目で見るようになりました。その結果、バルナバをゼウス、パウロをヘルメスと呼び、
いけにえをささげようとしたのです。人間にとって、自分が崇められることは気分の良いことです。
事実へロデは、群衆から崇められ、いい気分になりました。しかしおごり高ぶったために、
虫にかまれて死にました。
一方、バルナバとパウロは、衣を裂いて群衆の中に駆け込み、叫んで言ったのです。
「皆さん、どうしてこんな事をするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。・・・」と。
もし私たちがこのような働きをするようになったとき、普通のオジサン、オバサン、オニイチャン、
オネイチャンでいたいと思います。私たちは自分の罪や愚かさを知っており、取るに足りない者、
見下されている者であって、生まれながらに特別な賜物を持っている者ではなかったのです。
このへりくだりを持っていないと、自分がいかにも特別な人間になったように錯覚し、
主の栄光を取って、肩で風を切って歩くような者となってしまうのです。
そして、魔術師シモンのように、自分が目立ちたいという思いだけが先立って、
主の栄光を自分のものにしてしまうのです。
私たちが、聖霊の満たしを求めると同時にへりくだりを学ばされてきたのは、
受けた力を正しく用いていくためです。この学びがなく、突然聖霊のバプテスマを受けたら、
自分が特別な人間になったかのように錯覚してしまうでしょう。
しかし私たちは、無に等しい者であって、主が下さるものを提供するだけの者です。バルナバとパウロ
がおだてに乗らず、慎み、「自分たちは同じ人間だ」とへりくだったように、
私たちも、このへりくだりの心を身につけなければなりません。
C 私たちに与えられているビジョンは、とてつもなく大きく、その完成の暁には、人の関心を呼ぶ者
となるでしょう。ですから、人にねたみを感じさせるような働きでは、主の栄光は表せません。
空っぽの器とは、しもべになることであり、人に仕えていくことです。この心を身につけずに力を
頂いたら、傲慢になって退けられます。ですから、自分たちの誇りを捨て、「へりくだり」の心構えを
以って、御霊による力ある働きをさせていただきましょう。 |