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          2005年7月31日



十字架の真理

ヨハネ1章19〜34節




@ 今朝は、何故イエス・キリストがバプテスマをお受けになる必要があったのかを考え、

そこから、イエス様の十字架に示されている真理について学びたい
と思います。

A さて、バプテスマのヨハネの使命は、旧約聖書に示されているメシヤが来られた事を証しし、

メシヤの道備えをすることでした。そのメシヤは、「御霊が鳩のように天から下ってとどまられる

のを見たら、その方こそメシヤである」と、神から聞いていました。その通りのことが、

イエス様がバプテスマをお受けになった時に起こりました。ですから、ヨハネは、この方こそ

メシヤであると証言したのです。しかしながら、どうして、神の子がバプテスマを受けなければ

ならなかったのかという、素朴な疑問が残ります。「何故、神の御子であられるイエス様が、悔い

改めのバプテスマをお受けにならなければならなかったのか?」と。
その答えは、マリヤによって

私たちと同じ肉をお取りになったからです。聖書には次のように記されています。「神はご自分の

御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰された」と。

だからこそ、罪深い私たちにとって、イエス・キリストの十字架との深いかかわりがあるのです。

B 
では、イエス・キリストの十字架の真理について見てみましょう。

私たちがイエス様を救い主として信じた時、自分には罪があることを認めました。そして、その

罪の身代わりとなってイエス様が十字架で死んでくださったことを信じ、受け入れました。

しかし、信仰の歩みにおいて、私たちの罪の肉は死んでいませんでした。依然、昔と変わらず、罪を

犯してしまう弱い自分を見て、がっかりしたり、不信仰になっていました。またある者は、「ありの

ままの自分が救われたのだから、いいんだ。」と、上っ面な喜び方をし、自分の肉を放縦にし、

いい加減にしてきました。その現れ方は違っても、どちらも、罪深い自分が、しっかりと生きていた

のです。ですから、自分の肉に言い聞かせて、何とかしようとして、うなだれたり、恵みだから

一生懸命やるんだと、肉を奮い立たせたりして苦しんでいました。一体どこに原因があったので

しょうか。それは、イエス様の十字架の真理に対して、正しい理解がなかったからです。

イエス様が罪深い肉を十字架につけられた時、表面的なあの罪、この罪というものではなく、

「アダムから受け継いだ原罪そのものを、十字架につけるために死なれた。」ということだったの

です。それは、同時に、「私たちの原罪もイエス様と共に死に、私たちは罪から解放された者であっ

た。」ということです。
すなわち、「私たちの肉は十字架で死んでしまったので、肉に従って歩む

責任を、肉に対して負っていません。」という真理をそのまま受け入れればよかったのです。

原罪が死んでしまったということは、イエス様のいのちの中に生きていくだけです。

C 
イエス様は、私たちの原罪を持って死んでくださいました。ですから自分の肉は死んでいるの

だと、幼子のようにそのまま心に受け入れてください。死んだ肉を見切ってください。

死んだものに目を留め、振り向く必要はありません。これからは、ただイエス様に目を向け、

信頼して行けばいいという、単純な歩みに方向転換してください。それが、イエス様の十字架に

示された真理だったのですから。

                                    



     
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