「聖なる都とは誰?」
ヨハネの黙示録21章1〜10節
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@今朝は、小羊の妻である聖なる都エルサレムとは誰を指しているのか、 またそこに入れる
者たちとはどのような人々なのかを考えながら、私たちは、どのような信仰であるべきかを
考えていきたいと思います。
A さて、黙示録の通読も終わりましたが、私たちにとってこの最後の章は気になるところ
です。それは、直接私たちの祝福につながる所だからです。しかし、分からない部分も多いのは
事実です。というのも、これまでは、「いのちの書に名のしるされていない者」はみな、火の池
に投げ込まれたので、新天新地には、「いのちの書に名の記されたクリスチャンしかいない」
と思っていました。ところが、そうではなく、新天新地の中に都があり、都の外にいる人々がいる。
その人々は、どういう人たちか? というのが疑問なところです。そして、新天新地には次の
三通りの人々がいるように思われるということです。
(@)都の中で幕屋を張っている者 22v3
(A)都の中に出入できる者 21v24
(B)都の中に入れない者 21v27です。
B では、(@)の場合に当てはまる人々とはどのような者たちでしょうか。
それは、7章に記されている人々、即ち、「大きな患難から抜け出て来た者たちで、神の御座の
前にいて、聖所で昼も夜も神に仕えている者たち」ではないでしょうか。 彼らは、「イエスの
あかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たち」であり、殉教者たちです。彼らは、命を
かけて、キリストを証しした人々です。ただ教会に属し、ノホホンと過ごして天に逝った人々
ではありません。神は、信仰に応じて報いをされる真実なお方だからです。 ですから神は、
「自分たちが立てた証しのために殺された人々」のために、幕屋を張られ、彼らと共におられ、
共に住まわれます。彼らは、もはや飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼ら
を打つことはないのです。神ご自身が、彼らの目の涙をすっかり拭い取ってくださるのです。
このすばらしい祝福に預かったクリスチャンの姿を見ると、私たちもキリストの花嫁となり、
聖なる都エルサレムに住む者とされたいと思います。そのためには、キリストにあって生涯生き
抜くことです。自分の考えに頼って、自分のために生きていては、自己矛盾に陥ります。
キリストと共に死んだものは、自分のために生きないのです。ひたすら、キリストのために
命をかけて歩んでいくのです。
C 今世界で起こっている出来事を、聖書のみことばに照らし合わせて見ていくとき、最後の
部分に来ているように思われます。これから後、自分たちが立てた証しと、神のことばとの故に
首をはねられる、という時代に入っていくでしょう。 神は私たちを、そのような時代に生か
され、証しを立てさせようとしておられるのです。そのとき私たちに必要なものは、どこまでも
神に信頼する信仰の心です。二心ではない、開かれた真実な心で、献げきった信仰を表していく
ことです。そして、キリストの花嫁として、聖なる都エルサレムに幕屋を張る者とされたいと
思います。
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