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2005年2月13日


「肉と御霊の声」
ローマ8章1〜13節


 @ 今朝は、私たちクリスチャンの二面性(肉と御霊の声)について考え、私たちの生き方は、
 
 御霊の声を聞いて歩んでいく決断である
ことを、学んでいきたいと思います。
 

                        しんずい
 A さて、ローマ書8章には、クリスチャンの歩みの真髄が記されているように思います。
 
 これを知識だけで学んでも意味がありません。ここに記されている内容が、私たち自身の具体的な
 
 歩みで生かされてこそ、書いてある通りの事を味わっていけるのです。そのキーポイントは、

 “御霊“です。御霊様は、私たちがイエス様を信じた時、私たちの中にお住みになりました。


 「あなた方は、神の神殿であり、神の御霊が宿っておられることを知らないのですか」即ち、自分

 という生まれながらの人格の中に、まったく別の人格を持つようになったのです。 その結果、

 「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」という二面性が私たちの中に存在するよう

 になりました。この御霊の思いと、肉の思いは相逆らいます。しかし
クリスチャンは、「肉に従って

 歩む責任を、肉に対して負ってはいない。」のです。ですから、私たちが、どちら側の声に従って歩

 むかが問題なのです。そこでもし、御霊の声に従えば御言葉を現実に味わいますが、もし肉の声

 に従えば、ローマ書の御言葉の真髄を味わうことはできないのです。

 
 B では、私たちクリスチャンは、どのように生きて行ったらよいのでしょうか。

 まず聖書は語っています。「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありませ

 ん。」現実、私たちは肉を持っており、肉の声がいつも聞こえてきます。それでも、罪の定められる

 ことは無いと言うのです。何故ですか?神は、御子イエス・キリストを十字架につけることに

 よって肉を処罰され、肉の責任を全部イエス様が負って下さったからです。ですから、私たちの肉

 はすでに処罰されていますので、私たちは、「肉に従って歩む責任」はないと言われているので

 す。従って、ただひたすら御霊に従って歩めばいいのです。ところが、私たちは、自分の肉の声を

 無視できないと考え、心配しない自分は無責任だと思い、アレコレ考えて問題を解決すべきだと

 思っていました。しかし同じ心の中からは、「心配するな。あなたの思い煩いを主にゆだねよ。

 主に信頼せよ。」という御霊の声も聞こえていたのも事実です。だから、肉の声に従わず、御霊

 の声に従っていけばよいのです。それは人に対しても同じことです。私たちは、他人の肉に対して

 も責任は負っていません。その人を、霊的な祝福に導く愛の責任はあっても、その人の肉に合わせて

 いく責任はないのです。 ですから、神に信頼し、御霊の声を聞いて行くと、決断をしていくこと

 が、クリスチャンの歩みなのです。



 C パウロはテモテに勧めています。「信仰と正しい良心(御霊の声)を保ちなさい。

 勇敢に戦い抜くためであり、信仰の破船に会わないためです。」と。 私たちは、「それでも神に

 従うか?」という試みを受ける時があります。その時、肉に従って生きるなら死にますが、御霊に

 よってからだの行いを殺すなら生きるのです。この信仰の道に歩む、勇敢な生き方をして行きま

 しょう。 



                               
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