@ 今朝は、私たちクリスチャンの二面性(肉と御霊の声)について考え、私たちの生き方は、
御霊の声を聞いて歩んでいく決断であることを、学んでいきたいと思います。
しんずい
A さて、ローマ書8章には、クリスチャンの歩みの真髄が記されているように思います。
これを知識だけで学んでも意味がありません。ここに記されている内容が、私たち自身の具体的な
歩みで生かされてこそ、書いてある通りの事を味わっていけるのです。そのキーポイントは、
“御霊“です。御霊様は、私たちがイエス様を信じた時、私たちの中にお住みになりました。
「あなた方は、神の神殿であり、神の御霊が宿っておられることを知らないのですか」即ち、自分
という生まれながらの人格の中に、まったく別の人格を持つようになったのです。 その結果、
「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」という二面性が私たちの中に存在するよう
になりました。この御霊の思いと、肉の思いは相逆らいます。しかしクリスチャンは、「肉に従って
歩む責任を、肉に対して負ってはいない。」のです。ですから、私たちが、どちら側の声に従って歩
むかが問題なのです。そこでもし、御霊の声に従えば御言葉を現実に味わいますが、もし肉の声
に従えば、ローマ書の御言葉の真髄を味わうことはできないのです。
B では、私たちクリスチャンは、どのように生きて行ったらよいのでしょうか。
まず聖書は語っています。「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありませ
ん。」現実、私たちは肉を持っており、肉の声がいつも聞こえてきます。それでも、罪の定められる
ことは無いと言うのです。何故ですか?神は、御子イエス・キリストを十字架につけることに
よって肉を処罰され、肉の責任を全部イエス様が負って下さったからです。ですから、私たちの肉
はすでに処罰されていますので、私たちは、「肉に従って歩む責任」はないと言われているので
す。従って、ただひたすら御霊に従って歩めばいいのです。ところが、私たちは、自分の肉の声を
無視できないと考え、心配しない自分は無責任だと思い、アレコレ考えて問題を解決すべきだと
思っていました。しかし同じ心の中からは、「心配するな。あなたの思い煩いを主にゆだねよ。
主に信頼せよ。」という御霊の声も聞こえていたのも事実です。だから、肉の声に従わず、御霊
の声に従っていけばよいのです。それは人に対しても同じことです。私たちは、他人の肉に対して
も責任は負っていません。その人を、霊的な祝福に導く愛の責任はあっても、その人の肉に合わせて
いく責任はないのです。 ですから、神に信頼し、御霊の声を聞いて行くと、決断をしていくこと
が、クリスチャンの歩みなのです。
C パウロはテモテに勧めています。「信仰と正しい良心(御霊の声)を保ちなさい。
勇敢に戦い抜くためであり、信仰の破船に会わないためです。」と。 私たちは、「それでも神に
従うか?」という試みを受ける時があります。その時、肉に従って生きるなら死にますが、御霊に
よってからだの行いを殺すなら生きるのです。この信仰の道に歩む、勇敢な生き方をして行きま
しょう。
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