「甘えを断ち切り神の側に立つ」
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マタイ15章32〜39節
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@ 今朝は、神の側に立って見、考え、行動していく信仰について学んでいきたいと思います。
きせき
A さて、ここに、四千人の人々にパンを与えた奇蹟の記録があります。
これは二度目のパンの出来事です。以前と同じ状況になった時、イエス様は弟子たちに、「彼らを
空腹のままで帰らせたくありません。」と言われました。すると彼らは、「こんな大勢の人々に、どこ
からパンを買ってきて食べさせたらいいのでしょうか」と、前と同じ答え方をしたのです。
確かに初めの時は、「とてもだめです。」と答えたとしても無理はなかったでしょう。しかしながら、
今回は5000人の人々にパンが与えられた奇蹟を見ていたのですから、信仰を働かせて答える
べきでした。しかし前と同じ答え方をしたのは、どこに問題があったのでしょうか。
この弟子たちに足らなかったものは、何だったのでしょう。
そこで、どのような見方、考え方をしていけばよいのか、考えていきたいと思います。
B では、弟子たちがどのように応答したら、イエス様はお喜びになったのでしょうか。
彼らが、「ここに7つのパンと小さい魚が少しあります。イエス様が祝福されたなら、四千人でも
大丈夫でしょう。」と答えたなら、イエス様はどんなにお喜びになったでしょう。彼らがイエス様の
真意をくみとって、「人々の空腹を満たしたい」ということを察する心があったなら、このように
応答したに違いありません。誰でも、その人の言った言葉の真意が分からなければ、その人が願って
いる正しい行動は出来ません。神に対しても同じです。神様の真意が分からなければ、神が喜ばれる
行動は出来ないのです。では、どうしたら真意を知ることが出来るのでしょうか。それは、神の側に
立って物事を見ることです。例えば、水の上を歩いておられるイエス様を見たとき、ペテロは
「イエス様に頼めば自分も歩ける。」と思ったのです。そしてその通りに水の上を歩いたのです。
おぼ
これは神の側から見た信仰の結果です。ところが、波を見て恐れたとき、溺れかけてしまったの
です。これは、人間の側から見て不信仰になった結果です。私たちは、不完全な者ですから、どうして
も人間的な目で見て、神様の御心に立つことができません。ですから、「信仰の薄い人だ。」と
しか
失敗して叱られる事の多い者です。ただその叱られた時、自分をどちらの側に立って見るかが大事
なのです。神様の言葉の真意を考えようともせず、自分を守る側に立つでしょうか。それとも、
神の側に立って心を砕き、「へりくだってやっていこう。」と、神様の真意を汲み取っていくでしょう
か。私たちが神の側に立っていくためには、甘えを断ち切らなければなりません。自分の側に立つ
と、いつも自分の甘えが先に立つのです。しかし甘えを断ち切って行くとき、神の側に立った信仰
の心と行動が生まれてくるのです。
あがな
C イエス様は、十字架の贖いによって、私たちの罪の債務を帳消しにしてくださいました。
だからこそ、自分の弱さに対してエネルギーを使い、甘えを断ち切って、神に立って考え、
行動して行きましょう。
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