『裏切らない心で従う』
ヨハネ18章1節〜14節
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@ 今朝は、裏切らない心で、従うとはどういうことかを学びたいと思います。
A さて、ここには、イエス様が捕えられようとした時、弟子たちに対してイエス様がどう対処
されたかが出てきます。イスカリオテ・ユダが兵士たちを引き連れてやって来た時、他の弟子
たちはイエス様と一緒にいました。その時、イエス様は彼らを守るために、「もしわたしを捜して
いるのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」と言われたのです。それは、「あなたが
わたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした。」と言われたことばが実現する
ためでした。このことばは今日の私たちにも適用されています。なぜなら、「あなたがわたしに
下さった者たち」に、私たちも含まれるからです。こうして私たちも必ず守って頂けることが
分かると嬉しくなります。しかも、イエス様は、今にも捕えられて、ひどい辱めを受けなければ
ならない時に、自分のことより、弟子の安全を優先してくださったのです。この潔いイエス様の
心に触れれば、主にどこまでも従い通して行きたいと思います。
B さて、イスカリオテのユダは主を裏切りました。彼の心には、どんな思いがあったので
しょうか? ヨハネ12:1〜8には、ユダが、イエス様の足に香油を塗ったマリヤを非難した
ことが記されています。イエス様は、御自身の葬りの備えとして、マリヤの行為を受け入れられ
ました。ところがユダは、人間的な目で見て、霊的な価値を認めようとしませんでした。しかも、
それを公然と口にしたのです。それは、彼の心にひねくれた反抗心があり、イエス様を尊敬する
気持ちがゆがんでいたからです。彼は弟子の一人に加えられたにもかかわらず、付いていけないな
という気持ちを隠し持っていました。その結果、イエス様を見切り、金で売るという裏切りを
したのです。救い主を裏切ってしまったら、行く所はありません。悲惨があるだけです。
ですから、「生れてこなかった方がいい。」と言われたのです。しかし、ユダにあった心は彼だけの
ものではありません。私たちにも、その要素はあります。裏切りとは、味方を捨てて敵方に
付くことで、信義に背くことです。それを私たちは、自分の身を守るために簡単にしでかして
しまう怖さを持っています。しかし、人間同士の裏切りなら、まだ赦されます。罪人同士だから
です。しかし、こと創造主と創造主が送られた神の子を裏切ったら、逃げる余地はありません。
私たちは、神の子の命を丸ごと頂いて救って頂いた者です。そのお方を裏切ることは、最悪です。
C ところが、私たちは、裏切りを普段簡単にやっているのです。というのは、イエス様に
従っていきますと言いながら、「無理だ、出来ない。」と思うと、その弱気な気持ちを心に入れて、
不安な心を入れたままやります。それは裏切りです。何故なら、主に従うということは、
「何でもやります。」という表明であり、その心を裏切ることになるからです。確かに私たちは
弱い者です。しかし、「主よ!やりますから、助けてください。」というべきではないでしょうか?
しかも、絶対見捨てないと言って下さる方を信じたのなら、いつも「何でもやります。」と
信頼していくべきでしょう。しかし、心の中で疑うなら、ユダと同じになります。私たちは、
真実なイエス様を裏切りたくありません。ですから、過去の失敗を忘れ、今、この時から
イエス様に信頼して、前に向かってやっていきましょう。「主よ!」と、結果を出すために
汗をかいて行きましょう。
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