教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室
         
          2006年8月13日
                                                               
       『不動の信仰』 



ヨハネ10章1節〜30節







@ 今朝は、“不動の信仰”について学びたいと思います。

A さて、私たちはこれまで、ヨハネの福音書は難しいと感じてきました。それは、イエス様の

語り方がいつも、この地上の人々が理解できるような次元ではなく、父なる神の次元に立って

語っておられるからです。ですから、ユダヤ人たちとの会話において、いつも平行線をたどりま

した。彼らはイエス様を自分たちと同じ人間として見ているので、主の言葉の意図が理解できず

反発しました。しかし
イエス様は、群衆やパリサイ人たちが理解できるような人のレベルにあわ

せた話し方はされなかったのです。何故なら、「父、即ち創造主が引き寄せられないかぎり、

だれもイエス様の所に来ることが出来ない」からです。ですから、「わたしの羊はわたしの声を

聞き分けます。」と言われたのです。これは、私たちがどのような話し方で福音を語るべきかを

示唆しています。


B 
では、私たちは、どのような心で、どのような話し方で福音を語っていけばいいのかを考えて

みましょう。
先ず、私たちが福音を語るとき、一番はまりやすいワナがあります。それは、世の

人々に分かってもらいたいと思うあまり、真理をそのままハッキリと語るよりも、世のレベルに

合わせて頭を使い、何とか理解してもらおうとすることです。その結果、説明に説明を加えて

ゴチャゴチャ語り、かえって伝えたいと思った真理も伝わらず終わってしまうのです。確かに

誰でも、分かり易い言い方をして欲しいと思います。そうすれば信じると思うからです。しかし、

私たち人間が理解できるのは、地上の目に見えるものだけです。 イエス様はそれが分かって

いました。ですから、「わたしと父とは一つです。」と言われましたが、それについて、いちいち

説明や弁明をしていません。神でなければ出来ない業をされ、バプテスマのヨハネが指し示した

メシヤであったからです。でも、ユダヤ人から見れば、人の形をした者が自分を神とすることは

冒涜であり、死刑に当たりました。にもかかわらず、イエス様は、父の御心をそのまま語って

行かれただけで、メシヤとしてなすべき事をして行かれたのです。どのように非難されても決して

ブレルことの無かったイエス様のこの確信に、私たちも立つべきです。世の知性に訴えるのでは

なく、人の本能に訴えるのです。神は人間に、永遠を求める心を与えられましたから、天からの

霊的真理を本能的に理解するものを持っています。ですから、ここに向かって、ハッキリと語れば

いいのです。

C 
造り主の存在は、間違いのない客観的事実です。ですから、人々のレベルに合わせるのでは

なく、事実として、イエス様の語っておられるメッセージをそのまま語っていけばいいのです。

どう分かり易く語っても、人間イエスを神として説明することは、不可能です。イエス様も説明

しませんでした。ただ、それが事実だから、そのように語ったのです。私たちも、創造主に立った

福音を語る時、それが人間の知性のレベルに理解できなくても、父なる神の真理ですから、

はっきり語る時、人々の心に直感で分かるのです。こうして父の声をハッキリと聞き分けた者が、

イエス様に付いて来るのです。ですから、イエス様と同じ確信に立って、同じ話し方をしていけば

いいのです。これこそ不動の信仰です。
イエス様は言われました。「わたしはわたしの羊に永遠の

いのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去る

ようなことはありません。」と。こんなに嬉しいことはありません。安心して大胆に、イエス様と

同じ確信を持って語っていきましょう。



                                        

  
 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室