教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室



2006年12月10日



    『召された者にふさわしい歩み』

エペソ書4章17節〜24節



@ 今朝は、「召されたものにふさわしい歩み」とは、「滅びていく古い人を脱ぎ捨て、新しい人を

身に着ること。」
であることを学びたいと思います。


A さて、この手紙は、クリスチャンたちに語られているものです。その目的は、召されたものに

ふさわしい歩みをするためです。何故なら、私たちの全ての罪の支払いはなされ、天国に行く聖なる

者とされたからです。ですから、むなしい心で歩んでいた昔の古い人を脱ぎ捨てて、創り主によって

造り出された、新しい人を身につけていくようにと語られているのです。


B では、「新しい人」について考えてみましょう。先ず、パウロは自分自身のことについて次の

ように語っています。「私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。きっすいのへブル人

で、律法についてはパリサイ人、律法による義についてならば非難されるところのない者です。

しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストの故に、損と思うようになり
                            
ちりあくた
ました。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらを塵芥と思っています。」と

(ピリピ3章4〜8)。彼は、律法学者ガマリエルの下で教育されたエリートでした。

ところが、キリストを知った素晴らしさの故に、昔に勝ち取ったものを過去のちりあくたと思う

ようになったというのです。「それは、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰に

よる義、すなわち、信仰に基づいて、創り主から与えられる義を持つことが出来る」事を知って、

そこに本当の価値を置いたからです。それは、過去の自分のこだわりを完全に見切ったことです。

言い換えるなら、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着たのです。この心こそ、砕かれた心であり、

新しくされた者の心です。では、私たちの場合はどうでしょう。私たちも過去のものを見切って、

新しい中に入ったでしょうか? 私たちは自分の都合を捨てるリスクを怖がり、古い生き方に

留まるなら、パウロのような、はっきりとした信仰に立つことは出来ません。それは、キリストを

信じているとは言っても、その心は、相変わらず未信者時代と同じ古い人の中で生きているから

です。これでは信仰を現わすことが出来ないばかりか、心の中の葛藤を続けるだけで何のメリットも

ありません。パウロのように、古い生き方をスパットと見切って脱ぎ捨て、新しい人を着ること

です。そして、たとい自分にリスクが跳ね返ってくることがあっても、従っていくことを選択して

やっていくならば、「信頼して良かった。」というクリスチャンの醍醐味を味わうことが出来るの

です。

C 私たちは、これまで自分を守ろうとして肉のプライドに留まり、その結果、惨めな経験をして

きました。これらはみな、逃げの心から出たものです。
しかし、それらを隠して、そこに留まって

いたら、新しい生き方の中に入って行くことは出来ません。ならば、あえて自分の弱さや失敗を

告白してしまえばいいのです。そうすれば、そこから開放されて、新しい命の中に生きて行くことが

出来るのです。こうして、我を砕いて従っていく時、召されたものにふさわしい生き方が出来るの

です。そうすれば、パウロのように「信じて良かった。」ということを味わう生涯となるのです。
 




    



                                        

  
 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室