『信仰の原理』
ロマ書3章10節〜30節
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@ 今朝は、信仰は「受け取っていく」事であり、そのことは、「空っぽの器を差し出していくこと」
であると学んでいきたいと思います。
A さて、信仰は、へりくだって受け取る時、初めて分かるものです。なぜなら、信仰は、空っぽ
の器を差し出していくとき油が満たされ、器がありませんと言ったとき油が止まるからです。
ですから、信仰は、へりくだって受け取る生涯でもあるのです。そのためには、まず、私たちの
行動の原理がどこにあるのかを確認することが大切です。そこで、27節からの御言を読んでみま
しょう。「私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。・・・行いの
原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、
・・・信仰によるというのが、私たちの考えです。」とあります。すなわち、罪人の私たちからは、
完全に誇りは取り去られました。義人はひとりもいないからです。
B では、「行いの原理」と「信仰の原理」について考えてみましょう。聖書は、私たちの誇りは
すでに取り除かれました、と断言しています。誇りとは、私たちが持っている見栄、メンツ、プラ
イドなどです。これらは皆肉から出てくるものです。クリスチャンは、肉に対して生きている者
ではありませんから、「もう人間のメンツの中で生きていく必要はありません。」即ち、「自分の力に
頼らずに、最後まで主の助けを頂いてやっていこう。」とする生き方をするのです。それは、空っぽ
の器を差し出し続けることです。これが、信仰の原理です。 ところが私たちは、知らず知らずの
うちに、メンツと努力の中で生きていこうとしてしまうのです。しかも、そのような生き方が、
あたかも正しいかのように錯覚させられている面があります。一般的に、自分の出来ることは
自分でやろうとする事は、良い動機のように思われています。しかし、その動機の中に潜んでいる
思いが問題なのです。その思いとは、アダムとエバの中にもあったものですが、それは、「神から
離れ、自分の力に頼って、栄光を自分のものにしようとする思い」です。これこそ罪の原点で
あり、「行ないの原理」の原点です。私たちはこの肉の性質を受け継いでいますから、つい神の手を
振り払って、自分の栄光にしたくなるのです。この傲慢な思いは、心の一新によって改めねばなり
ません。それは、私たちが空っぽの器を差し出して、油を満たし続けてもらうためです。
そのことは、私たちが、主に仕え、主の御心を実現していく生涯を全うするためです。主の手を
振り払い、自分の力でやれば、自分の誇りになるでしょう。しかし出来なければ、すねて、
反抗的になって行くだけです。どこまでも、私たちの誇りはないのです。自分で何とかしようと
して、神に頼ることを止めるなら、その時から油は止んでしまいます。「行ないの原理」によっては
義とされないからです。
C イエス様は、十字架を前にして肉の弱さにふるえつつも、神の御心に従う道を通されました。
まして罪人の私たちが、自分の誇りのために、カッコを付けることはできません。ただ心を開き、
力を抜いて「弱い私たちを助けてください。」と、受けていくだけです。それが、信仰の原理です。
そして、へりくだって従うべき道には従っていくのです。 |
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