@ 今朝は、「御霊で始まったことは、御霊で完成させる」事について学びたい。
A さて、この手紙は、異邦人の使徒であるパウロから、異邦人の地のガラテヤの教会に書き
送られたものです。その目的は、「律法の行ないによって義とされるのではなく、キリストを
信じる信仰によって義とされる」ことを教えるためでした。というのは、初め、イエス・キリ
ストの福音を喜んで受け入れたのに、急に、ほかの福音に傾いていったからです。それは福音
ではなく、「割礼を受けなければ救われない」という律法主義でした。それは、御霊で始まった
彼らが、肉で完成しようとする方向に向けられたからです。そこでパウロは、「あなた方が御霊を
受けたのは律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」と、ガラテヤの
かんき
クリスチャンたちの霊を喚起しようとしているのです。
B では、「御霊で始まったことを御霊で完成する。」とはどういうことでしょうか。
先ず、私たちクリスチャンは、イエス・キリストを信じたときみな約束の御霊を受けました。
だから、クリスチャンはみな御霊の感受性があり、祈りや賛美やメッセージ等に対して御霊の
働きを感じることが出来るのです。それは、信仰によって義と認められたアブラハムへの祝福が、
キリストを通して全ての異邦人にも及んだ結果でした。(ガラテヤ3:14)しかしそれとは別に、
使徒1章8節で約束され、2章で実現した聖霊の満たしがあります。それは、聖霊の力を十分に
受けるためにその中に浸かることを意味します。それによって、キリストを証しする為に必要な
力と賜物を頂くのです。私たちが願い待ち望んできたのは、この聖霊の満たしです。あらゆる
障害を乗り越え、力強く福音宣教をしていくエネルギーは、聖霊の力以外無いからです。
この志を与えて下さった神ご自身が、それを完成させて下さいます。ところが、待ち望む時が
長引くと、「大丈夫かな」という思いになり、御霊から離れて肉でやろうとするのです。
それは、表面上だけを信仰に合わせることになり、御霊で始めたことを肉で完成させることに
ならないでしょうか。それは、ガラテヤの教会が、ユダヤ人の律法主義にあわせて、キりストの
きぜん
福音に毅然と立たなかったことと同じです。確かに、待ち望むストレスから逃げ、心を使い分け
たら、戦いも圧迫もないでしょう。しかし、心を一つにした純粋な信仰を追求し貫いて行くには、
忍耐と時間が要ります。しかも、私たちが純粋な心を現わしたからといって、必ずしも人に受け
入れられるとは限りません。しかし神には受け入れられるはずです。又、そうしていかなければ、
聖書を読んでも、メッセージを聞いても、その時だけで、行動には表そうとしない冷えた信者に
なってしまいます。それは私たちの本心ではありません。ですから、逃げずに忍耐し追求していく
ことが、御霊で完成する事なのです。
C 私たちは、自分の気持ちを簡単に変えてしまうところがあります。しかし、心と行動を一つに
して追求していきましょう。それが、御霊で完成することになるのですから。
|