『信じて受け取る信仰』
ロマ書6章1節〜14節
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@ 今朝は、信仰とは、「信じて受け取る」ことであることを、学びたいと思います。
A さて、ロマ書は問答形式で記されているため、頭だけを使って読む傾向があります。それは、
パウロの問い掛けに対して、その答えを理解すれば、ロマ書が分かるような気がするからです。
しかしながら、ロマ書を知的に理解すれば、書かれた目的である、信仰の従順に至るかといえば、
そうではありません。というのは、理屈では分からないことが多いからです。
例えば、「罪に対して死んだ。」と言われていることを理解したいと思っても、現実の自分は死んで
いませんから理解できません。しかし、自分の頭では分からなくても、「そうですか。」と、信仰を
持って受け取っていく時、平安と喜びを味わうのです。すなわち、その平安が、信仰の従順へ
導くのです。頭だけでは味わうことは出来ません。
B では、「受け取る」ことについて考えてみましょう。私たちは、自分の命の存在を何の感謝も
なく受けとっています。ところが、この命の仕組みを見るとき、驚くべき知恵を見るのです。
たとえば、一つの細胞を取ってみても、とても偶然に出来たとは考えられません。人知の及ばない
緻密な精巧さをもって仕組まれており、そこにデザイナーの存在を感じるからです。即ち、設計図
を造られた方(創造主)がおられると分かります。ところが私たちには、造られたという感覚は
ありません。その過程を見ていないからです。救いも同じです。私たちは見てもいないし、感じて
もいません。ただ、キリストがして下さった贖いの事実を、信仰を持って受け取ったか否かなの
です。もし、「感謝します。」と受け取るなら、自分はキリストと共に死んで甦った者だと感謝でき
ます。ところが、この世の中では、丸ごと信じていけば、あとで恥をかいたり損をしたりします。
ですから多くのクリスチャンは、信じる世界と計算ずくの世界を使い分けて、生きています。
しかし私たちは、駆け引きなく、純粋に創造主に信頼して行く生き方を、この現実の社会でも
通用することを証しして行きたいのです。そうは言っても、私たちは罪人で弱い人間です。主に
信頼すると決めていても、状況が反対の方向に向かうと、落胆と絶望の中に入ります。
アブラハムも、長い間約束の子が与えられず、恐れと不安の中で人間的な方法で子を得ようと
しました。イエス様も、十字架を目前にしたとき、恐れのあまり、「この杯をわたしから取りのけ
てください。」と言われました。人として来られたが故に、私たちと同じ弱さを持っておられたから
です。しかし、アブラハムは信仰の父と言われ、イエス様は、天の父なる神の右に座られました。
弱さを持っていても逃げず、損得抜きで神の御心を受け取り、従い通されたからで。だからこそ、
天にて勝利を味わわれたのです。
C 主は、長いスタンスの中で評価して下さいます。ですから、弱さを見せたら終わりと思っては
いけません。弱い者ではあっても逃げず、罪に対して死に、キリストに対して生きている者である
ことを受け取って、ただ主に純粋に信頼していくのです。この、御言葉をそのまま受け取る信仰
こそが、信仰の従順に至らせる道であることを信じましょう。
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