『信仰の従順』
ロマ書1章1節〜7節
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@ 今朝は、5節の「信仰の従順をもたらすためなのです。」に目をとめ、考えてみたいと思います。
A さて、ロマ書は、人間が変わらなければ、読んでも分かりにくい書です。肉のままの古い人
しんずい が
では理解するのが難しいからです。というのは、「従順」の真髄は我が砕かれていくことですから、
が
我が砕かれる世界に身を置いていないと分からないものです。そしてその世界とは、カスミを
食べて生きていくような世界です。何故なら、自分の損得や打算で生きていく世界ではないから
です。
B では、損得や打算の無い世界について考えてみましょう。まず、私たちが住んでいる世界は
どうでしょうか。はっきり言って損得の世界です。それが当たり前になっています。親子関係
でも、兄弟同士、友人同士、また人の集まる所どこででも、その感情が働きます。ですから、
少しでも自分が得する世界で生きていきたいと願って行動し、金儲け、あるいは学問、あるいは
ひい
スポーツ等々の全てで秀でたいと頑張るのです。しかし、みながトップになれる訳ではありませ
ん。みんながエリートになれる訳でもありません。ですから、競争に負ける悲哀を味わいながら
も、少しでも優位に立とうとケンかをしたり、馬鹿にしたり、弱い者をいじめたり・・・と、
子供の頃から損得で生きる競争世界の中で生きていました。ところが思春期になると、そういう
自分が嫌になり、損得の無い純粋な世界を求めるようになります。こうして出会ったのがイエス・
キリストでした。こんな純粋な世界があるんだ、と喜びました。それというのも、イエス様ご自身
が、損得の方ではないと分かったからです。人間の罪を贖うこと自体百パーセント犠牲であり、
損得では出来ないことだからです。神の愛は駆け引きの無い純粋な世界です。ですから私たち
クリスチャンも、損得と打算の世界から、カスミの世界に方向転換するのです。そうしないと、
キリストの精神が失われ、世の精神に戻ってしまうからです。世では我を通すのが当たり前で
あり、我を砕く人は弱い人と見られます。確かにこれまで、弱い人間と思われ、損をしたり傷つけ
られることが多くありました。しかし、キリストに対して生きている者ですから、自分のためでは
なく、死んで甦った方のために生きる者とされ、キリスト・イエスの恵みによって強くされ、
メンツや体面ではなく、自分を捨てて生きるように求められているのです。その真実な世界に入る
には、百パーセント罪人である自分を認め、自我を砕けばいいのです。私たちは、この生き方が
世でも通用することを証しして行きたいのです。たといその時は損をしたとしても、長いスタンス
の中で、その方が自分にとって益であったことを証しして行きたいのです。この生き方を、私たち
クリスチャンが証ししなかったら誰が証しするのでしょうか。
C 信仰の歩みは、自我を砕いて行く生涯です。自我が信仰の妨げとなるからです。自我を砕いた
とき、私たちは、キリストの心、考えに立って生きるようになります。そこから神への従順が
始まるのです。この心をもって、証しして行きましょう。
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