『神への信頼から来る余裕』
第T列王記17章
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@ 今朝は、エリヤの対応から、神への信頼から来る余裕について学びたい。
A さて、エリヤが、イスラエルの預言者であったとき、イスラエルに飢饉が起こりました。
からす
そこで、神はエリヤに、ケリテ川のほとりに身を隠しなさい。そこであなたを、烏によって養う
ように命じたから、と言われました。そのお言通りに、朝と夕方に烏がパンと肉を運んで来たの
か
です。ところが、その川の水も涸れてきました。そこで、次に神は、一人のやもめを通して
あなたを養うようにしているから、ツァレファテに行きなさいと言われたのです。もしエリヤが、
自分の先入観だけで、「神が一度言われたことなら、どんなことになってもこの場所で自分を
養われるはずだ。」と考えて疑いをもったのなら、この神の言葉にがっかりし、素直になれな
かったでしょう。しかし彼は、疑いを入れず言われた通りに出かけました。このエリヤの姿勢に、
単純に信頼している心を見るのです。
B では、次にエリヤは、やもめに対してどのように対応したのでしょう。
彼は、ケリテ川の時に、烏が飛んできて神の言葉通りに助けられたのだから、こんどの場合も
全て、順調にうまく行くと考えていたことでしょう。ところが、そのやもめは、貧しかったの
です。しかも、エリヤが着いたときには、最後に残った、たった一握りの粉を調理し、息子と
一緒に食べた後で、死のうと考えていたところだったのです。ですから、神様が仰るように、
エリヤを養えるどころではありませんでした。しかしエリヤは、悲観的で意地悪そうな、
やもめを目の前にしても、少しも焦らず、動ぜず、やもめに言いました。「恐れてはいけません。
まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私の所に持って来なさい。それから後に、
あなたとあなたの子どものために作りなさい。」と。この言葉は、どう考えても、あまりにも
厚かましく思える言い方だったと思います。しかし、エリヤのこの余裕のある言葉はどこから
出てきたのでしょう。エリヤは続けて言います。「イスラエルの神、主が、こう仰せられるから
です。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくなら
ない。』」と。この主の言葉がエリヤの確信の根拠です。しかしそう言われても、周りは飢饉の
中にあり、自分の所だけが・・・と、信じがたい言葉であることは事実です。しかし、やもめも、
この神の言葉を受け入れ、その通りにしました。その結果、神の言葉通り、かめの粉は尽きず、
つぼの油はなくならなかったのです。ところが、やもめの息子が死んだことによってこの信頼も
一変します。やもめはエリヤに文句を言い、エリヤも主に文句を言ったのです。しかし主は、
エリヤが三度祈った祈りに答えられ、息子を生き返らせることによって、御自身が真実である
ことを明らかにされました。
C 私たちがこの地上にいる限り、問題は必ず起こってきます。しかし主は、「あなたがたには、
いつも助け主が側にいるのだから、あなた方は、心配しすぎて、自分で荷を負いすぎてはいけない
のだよ。それを主のもとに下ろしなさい。」と言われるのです。即ち、信頼と余裕の中で歩み
なさいと言われるのです。これこそ、信仰の証なのですからと。
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