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          2006年3月12日
                                                               
       『信仰の確信を持って歩む』 


ヤコブ2章10節〜26節





@ 今朝は、「信仰の確信」を持って歩むことについて学びたいと思います。

A さて、ヤコブ書を読んでいくと、真理には二面性があることを実感させられます。例えば、

「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ロマ10章10節)と言われて

いますが、ヤコブ書では「その人に行いがないなら、そのような信仰がその人を救うことができる

でしょうか。」、「行いのない信仰は、死んでいるのです。」と。相反するような言われ方をして

います。別々に読んでいくと、どちらも真理だと分かりますが、両方くっつけて読むのは難しい

ことです。けれども、信仰というのは行いによって分かるものです。というのは、口先だけで

信じると言っても、その時だけの人が一杯いますし、本当に信じたのなら、人に勧められなく

ても、教会に行こうとする行動が自発的に出てくるはずです。というのは、自分で決めたことは、

どんなことでもやろうとするし、求められる違和感はないからです。ですから、信じるという

ものは、行いの伴うものなのです。ですから、救いは信じるだけで救われますが、必ず行いが

ついて来るものです。これを前提として、私たちは、信仰のミッションを立ち上げて行きと思い

ます。それは、クリスチャンたちが信仰の確信に立って歩んで行く者となっていくためです。

B では、“信仰の確信”について、10節から学んでみましょう。

イエス様は、「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者と

なったのです。」といわれました。それは、「姦淫を犯してはならない」と言われた方は、同時に

「殺してはならない」とも言われたからです。ですから、たとい99%正しくても、1%非が

あるなら律法を破ったことになるのです。これは何を意味しているでしょうか。
私たちは、

たとい99%正しくても、1%非があれば、「間違っていました。」と自己弁護せずに認める

ことが、神の御前に正しいことなのです。このことを理解せずにいると、少しばかりの自分の義を

立てるようになり、神への不満、反抗心が起こってくるのです。元来私たちは、100%罪人で

罪に満ちた神の怒りの器です。ですから、私たちが罪人である事を認め、へりくだれば、主の

赦しがあるのです。救い主なるイエス様が現れてくださるからです。
これは、へりくだらないと

分かりません。しかし、自分の義を立てて、人のせいにすれば、自分を責める神が悪いという

ことになり、出口のない暗黒の中に落ち込むのです。私たちは「自分は罪人のかしらです。」と

認めることによって、一切の責めから解放され、神に近づくことができます。そうすれば、

悪魔に立ち向かうことができ、悪魔は逃げて行くのです。この歩みの中にこそ、信仰の行いが

伴ってくるのです。そして信仰の確信に満ちてくるのです。

C 
神への不満を持っていると、確信に立った歩みができません。100%罪人であることを

認めて、へりくだりましょう。そうすれば、造り主に対して生きていく行いが伴い、信仰の確信も

現れてくるのです。この信仰に堅く立って行きましょう。


                                        

  
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