『キリストのために生きる人生』
第Uコリント5章15節
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@ 今朝は、私たちクリスチャンの生き方は、自分自身のために生きるのではなく、キリストの
ために生きる人生であることについて、学びたいと思います。
A さて、聖書では次のように言われています。「・・・もはや自分のためにではなく、自分の
ために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」、「いま私が、この世に生きている
のは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった、神の御子を信じる信仰によっているのです。」
しんずい
と。これは、クリスチャンの生き方の真髄であるだけでなく、全ての人間の生き方の真髄でも
あります。というのは、私たち人間は、創造主の手による最高の傑作であり、(私たちの体の
仕組みは、どこをとっても精巧に仕組まれており、実に神業だから。)それぞれが創造主に
あって、目的を持って命が与えられているからです。ところが多くの人はそれを知りません。
みな、自分の思い通りの生き方をしたいと思いつつ、不満と落胆と焦燥感と空しさの中に生きて
います。なぜなら、全てが自分の思い通りにいかない事が多いからです。私たちの人生に満足感が
ないのは、私たちの生き方の中に原因があります。それは私たちが、創造主の目的に従って生きて
おらず、自分勝手な生き方をしているからです。
B では先ず、私たちが自分の満足を覚えるときは、どんな時か考えてみましょう。
多くの場合、自分の努力が報われて具体的な実が出たとき、あるいは、自分の思い通りに事が
運び良い結果(実)を得たときなどではないでしょうか。ところが、努力が報われず、思い通り
に行かなかったときにはガッカリし、空しさを味わい、落胆するのです。これらは全て、
自分自身の実績を残したいという自分自身の欲求が満たされないからです。ですから、自分が
満足しなければ落胆し、自分に誉れが来なければ空しくなり、行き詰まって生きることがイヤに
なったり、疲れ果てて自暴自棄になったりするのです。しかし、これと全く反対の生き方もあるの
です。それは、創造主を中心にした生き方です。特に私たちクリスチャンは、創造主を知っている
のですから、自分が生かされている目的をはっきりと自覚できるのです。そうでないと、焦点の
合わない中途半端な生き方をすることになります。私たちは、自分の益となるために生きている
のではありません。私たちのために死なれたキリストのために生きているのです。そして
キリストは、ご自分の実を結ばせるために私たちを召して下さったのです。私たちの自己満足の
実ではありません。キリストのための実です。ですから、私たちは自分のために積み上げる必要も
なく、また自分の益とならなくても、キリストのためとなれば、それでいいのです。どこまでも、
仕えていくことを徹底していくなら、なりふり構わず一生懸命努力していけるでしょう。
この心の切り替えをしていくなら、生き方がクリアになり、キリストに焦点のあった生き方が
できるのです。
C 私たちが、自分の実を結ぶために生きていこうとするなら、キリストのためには生きて
いけないでしょう。また心の安らぎもありません。ですから、考え方を変え、キリストのために
生きていく人生に、完全に切り替えるのです。そうすれば自分の益ではなく、キリストのために
ドロをかぶる男らしさも生まれてきます。この生き方こそが、クリスチャンの残された人生なの
ですから。
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