『如何に生きるべきか』
へブル書10章1〜25節、35〜39節
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@ 今朝は、神の遠大なご計画と、私たちが救われた目的は何かを考えながら、私たちが如何に
生きるべきかを学びたいと思います。
A さて、この手紙は、ユダヤ人クリスチャンたちに対して書かれました。ユダヤ人は、律法を
与えられた民として、律法を行うことによって義とされることを大事にしてきましたが、律法の
行ないによっては義とされませんでした。ですから、完全な救いについて、律法と照らし合わせ
ながら、はっきりと語る必要があったのです。それは、毎年献げなければならないという不完全な
ものではなく、神の御子イエス・キリストのからだが、ただ一度献げられたことによって、完全に
聖なるものとされるという、完全な救いです。神の目的は、御子イエス・キリストの血によって
私たちを聖めることにあったのです。
B では、「完全な救い」を計画し実行された神の目的、またその御心はどこにあったのでしょう
か。もし、初めの人アダムが、完全な者として造られていたなら、天に住めば良かったのですが、
自由意志を与えられ、それを試みるための試練が与えられていました。その試練に合格するか
どうか分からないという不完全な要素も持っていました。このことから、初めから完全で聖めら
れた者ではなかった事が分かります。ですから、天に住まうことは出来なかったのです。しかし
神の御心は、ご自分の命で聖めて、ご自分の側に置くことにありました。そのために、律法を
与えて罪人に過ぎないことを自覚させ、聖められるには、傷のない完全ないけにえの血が流され
ねばならないことを明らかにされました。それは、アダムの失敗の故に罪に閉じ込められている
人間の罪を贖い聖め、ご自分の側に置くためです。しかも神は、毎年献げねばならない不完全な
いけにえではなく、完全ないけにえを神ご自身が用意されたのです。イエス・キリストのからだ
が、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされました(10章10節)。
創造主によって造られた私たち人間を「取り戻す」ためでした(36節)。それは、イエス様と造られ
た者たちが、父なる神の交わりの中に生きていくためです。これは、初めから神の計画にあった
ものであり、神の奥義でした。その時、私たちは、天上の体を持ち、心に律法を書き付けられて、
神の交わりの中に喜んで生きる者とされるのです。そこに、私たちの行為は一つも入っていませ
ん。ただ御子の血による聖めだけです。これは、神の奥義です。ですから、御子よって天に上げら
れると知ったなら、「有り難うございます。あなたの御心の中に生きていきます。」となるのです。
父なる神が人間を造られた目的は、神の栄光を現わし、神を誉め称えるためなのですから。
C だから、私たちは、この地上でも、心の一新によって自分を変え、自分の手足を義の器として
神に捧げ、父なる神の御心の中に生きていくのです。それは、自分のために生きるのではなく、
自分のために死んでよみがえった方のために生きることです。(Uコリント15章15節)。
私たちの目的は地上のものではなく、天にあるからです。恐れて退かず、神の御心をひたすら
追求して行く現役の生き方をしていきましょう。
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