@ 今朝は、主体的な信仰をもって生きていくことについて学びたいと思います。
A さて、ペテロは、捕らえられたイエスさまのあとから遠く離れてついて行きました。
イエス様がどうなるのか、尋問の「成り行きを見ようとした」のです。この表現の中に、ペテロの
心の変化を見ることが出来ます。成り行きを見ようとするその心に、他人事として受け止めている
受け身の心を見るからです。このペテロの心変わりによってイエス様のことを「知らない。」と
三度も言ってしまうという裏切りの結果を出してしまったのです。しかしそれまでの彼は、
イエス様に従っていこうとする主体性がありました。ところが弱くなってしまったのです。
B では、ペテロの心の変化を見ながら、「成り行きを見る」とはどういう事か考えてみましょう。
彼はイエス様が捕らえられる直前までは、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は
決してつまずきません。」と。どこまでもついて行こうとする心の主体性がありました。ところが、
イエス様が捕らえられた時点で気持ちが切れ、弱くなってしまったのです。「これで終わりかー」
と思ったとたん、彼にとってイエス様は他人になってしまったのです。その結果、ペテロは、
イエス様を自分と分けてしまい、この後どうなるのかと「成り行きを見よう」としてついて行った
のです。即ち、成り行きを見るとは、「もし、ウマく行きそうなら乗っかっていくが、そうでなけれ
ば手を離す。」という事です。ですからペテロは、「知らない」と三度も言ってしまったのです。
この事から私たちは、何を学べるでしょうか。それは、「どんなことがあっても、自分は従って
いくだけだ。」という強い主体性を持っていくべきだということです。そうでないと、ペテロの
ように、気持ちが切れて、自分を裏切るような生き方をしてしまうからです。信じると決めて
おきながら、都合が悪くなると手を離すということは、絶対者に対して、決して、してはいけ
ないことです。そもそも、私たちのいのちは、自分で造ったものではなく、親がいたから存在した
というわけでもありません。卵子と精子が受精出来る確率、そして着床し成長できる確率は
1/九千億というほんのわずかもので、そのいのちが私自身なのです。しかも、そこに創り主
というお方がいるからこそ、奇蹟に近いような確率であっても、キチンと一人前の人間として
誕生して来れるのです。そのシステムを造られた方は、驚くべき知恵のある方です。ですから、
いのちには価値があり、尊いのです。従って、自分を裏切るということは、この創り主を裏切る
ことであり、それは創り主を悪者にすることです。このシステムを造られた方と切れたら、私たちの
存在価値はなくなります。私たちのいのちは、創り主にあってナンボのいのちですから、この方を
悪者にして敵に回しては生きていけません。滅びるだけです。その関係を切ったら人生の意味が
なくなります。私たちも、ペテロと同じように成り行きを見る卑怯な生き方ではなく、主を
決して悪者にしないと決め、主体的に生きていくべきです。
C 私たちが決めて歩んでいくとき、悪魔は私たちの弱さに働いてきますが、一喝して退けて
ください。そして、造り主を悪者にしない生涯を貫いていこうではありませんか。
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