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          2006年5月7日
                                                               
       『空っぽの器』 



マルコ14章33節〜36節







@ 今朝は、十字架を目前にされたイエス様の祈りから、“空っぽの器”について学びたい

思います。

A さて、イエス様は、十字架刑を目前にして祈られました。「もしできることなら、この時が

自分から過ぎ去るように。・・・どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」と。
                      の  ほ             さかずき
ところが、主は、十字架刑は、呑み干さなければならない杯であることは分かっていました。

もしイエス様が、人の子の形を取らず霊的存在だったら、十字架を前にして、このように苦しみ
もだ
悶えることは無かったでしょう。しかし、人として来られ、私たちと同じ肉を持たれたが故に、
                                    お  け
十字架を前にして、足のすくむような恐怖を覚え、怖じ気づくような心を持たれたのです。主が、

人の子として、人間の罪を背負って犠牲の子羊となられることは、軽いことではありませんでし

た。

ですから、私たちにとって、主が罪の代償を支払ってくださったことの重みをヒシヒシと感じるの

です。ここで
イエス様は人の子として正直な心を表されましたが、逃げ出すことはせず、「しかし、

わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」と、心を変えられた

のです。まさに、この心こそ私たちの学んできた“空っぽの器”です。創造主なる神は、私たち

にもこのイエス様の心を模範として、“空っぽの器”となって従って来なさいといわれるのです。


B では、“空っぽの器”の心について考えてみましょう。私たちはこれまで、空っぽの器に

ついて学んで来ましたし、様々な取り扱いも受けてきました。その過程の中で、逃げ出したくなる

ような状況に遭遇し追い込まれて、全てを投げ出して逃げ出したくなるようなこともありました。

しかし、その中で学んだことは、どんなことがあってもこらえて逃げ出さないという事です。

言い換えるなら、自分を守ろうとする肉の心を砕いて、むしろへりくだって自分の感情を退け、

「分かりました。」と神の御心に従って行くこと、これこそ私たちが学んできた信仰の姿勢です。

この心は「砕かれた、悔いた心」です。それは、心が開かれていなければできません。イエス様の

心は、神に対して開かれていましたので、十字架の恐ろしさを身に感じ、怖じ気づく感情を抱き

つつも、心を切り替えて神に従うことが出来たのです。死ぬ覚悟が定まったからです。
実に、心を

開くという事は、自分の命を捨てることなのです。自分の命を捨てるとは、神の前に自分を空しく

し、主の栄光を表して行こうとする心です。この心こそ“空っぽの器”であり、この心を持った

者が主に用いられていくのです。


C 私たちにとって、“空っぽの器”を学ぶ事は大変でした。しかしこれからは、私たちの信仰の

土台として行きたいと思います。それは、
造り主の存在とキリストの救いが不動のものであり、

このキリストの完全な救いの中に入れられているのですから、全面的に信頼していけばいいので

す。

ですから私たちはもはや、自分の弱さに捕らわれなくてもいいのです。この救いは、自分から

離れた客観的事実の中にあるものですから、「私の命はあなたのものです。主よ、あなたにお任せ

します。」と、私たちもイエス様を模範として歩んで行きましょう


                                        

  
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