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            | 『不動の信仰』 
 
 
 ヨハネ10章1節〜30節
 
 
 
 
 
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 @ 今朝は、“不動の信仰”について学びたいと思います。
 
 A さて、私たちはこれまで、ヨハネの福音書は難しいと感じてきました。それは、イエス様の
 
 語り方がいつも、この地上の人々が理解できるような次元ではなく、父なる神の次元に立って
 
 語っておられるからです。ですから、ユダヤ人たちとの会話において、いつも平行線をたどりま
 
 した。彼らはイエス様を自分たちと同じ人間として見ているので、主の言葉の意図が理解できず
 
 反発しました。しかしイエス様は、群衆やパリサイ人たちが理解できるような人のレベルにあわ
 
 せた話し方はされなかったのです。何故なら、「父、即ち創造主が引き寄せられないかぎり、
 
 だれもイエス様の所に来ることが出来ない」からです。ですから、「わたしの羊はわたしの声を
 
 聞き分けます。」と言われたのです。これは、私たちがどのような話し方で福音を語るべきかを
 
 示唆しています。
 
 B では、私たちは、どのような心で、どのような話し方で福音を語っていけばいいのかを考えて
 
 みましょう。先ず、私たちが福音を語るとき、一番はまりやすいワナがあります。それは、世の
 
 人々に分かってもらいたいと思うあまり、真理をそのままハッキリと語るよりも、世のレベルに
 
 合わせて頭を使い、何とか理解してもらおうとすることです。その結果、説明に説明を加えて
 
 ゴチャゴチャ語り、かえって伝えたいと思った真理も伝わらず終わってしまうのです。確かに
 
 誰でも、分かり易い言い方をして欲しいと思います。そうすれば信じると思うからです。しかし、
 
 私たち人間が理解できるのは、地上の目に見えるものだけです。 イエス様はそれが分かって
 
 いました。ですから、「わたしと父とは一つです。」と言われましたが、それについて、いちいち
 
 説明や弁明をしていません。神でなければ出来ない業をされ、バプテスマのヨハネが指し示した
 
 メシヤであったからです。でも、ユダヤ人から見れば、人の形をした者が自分を神とすることは
 
 冒涜であり、死刑に当たりました。にもかかわらず、イエス様は、父の御心をそのまま語って
 
 行かれただけで、メシヤとしてなすべき事をして行かれたのです。どのように非難されても決して
 
 ブレルことの無かったイエス様のこの確信に、私たちも立つべきです。世の知性に訴えるのでは
 
 なく、人の本能に訴えるのです。神は人間に、永遠を求める心を与えられましたから、天からの
 
 霊的真理を本能的に理解するものを持っています。ですから、ここに向かって、ハッキリと語れば
 
 いいのです。
 
 C 造り主の存在は、間違いのない客観的事実です。ですから、人々のレベルに合わせるのでは
 
 なく、事実として、イエス様の語っておられるメッセージをそのまま語っていけばいいのです。
 
 どう分かり易く語っても、人間イエスを神として説明することは、不可能です。イエス様も説明
 
 しませんでした。ただ、それが事実だから、そのように語ったのです。私たちも、創造主に立った
 
 福音を語る時、それが人間の知性のレベルに理解できなくても、父なる神の真理ですから、
 
 はっきり語る時、人々の心に直感で分かるのです。こうして父の声をハッキリと聞き分けた者が、
 
 イエス様に付いて来るのです。ですから、イエス様と同じ確信に立って、同じ話し方をしていけば
 
 いいのです。これこそ不動の信仰です。イエス様は言われました。「わたしはわたしの羊に永遠の
 
 いのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去る
 
 ようなことはありません。」と。こんなに嬉しいことはありません。安心して大胆に、イエス様と
 
 同じ確信を持って語っていきましょう。
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