@ 今朝は、「召されたものにふさわしい歩み」とは、「滅びていく古い人を脱ぎ捨て、新しい人を
身に着ること。」であることを学びたいと思います。
A さて、この手紙は、クリスチャンたちに語られているものです。その目的は、召されたものに
ふさわしい歩みをするためです。何故なら、私たちの全ての罪の支払いはなされ、天国に行く聖なる
者とされたからです。ですから、むなしい心で歩んでいた昔の古い人を脱ぎ捨てて、創り主によって
造り出された、新しい人を身につけていくようにと語られているのです。
B では、「新しい人」について考えてみましょう。先ず、パウロは自分自身のことについて次の
ように語っています。「私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。きっすいのへブル人
で、律法についてはパリサイ人、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストの故に、損と思うようになり
ちりあくた
ました。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらを塵芥と思っています。」と
(ピリピ3章4〜8)。彼は、律法学者ガマリエルの下で教育されたエリートでした。
ところが、キリストを知った素晴らしさの故に、昔に勝ち取ったものを過去のちりあくたと思う
ようになったというのです。「それは、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰に
よる義、すなわち、信仰に基づいて、創り主から与えられる義を持つことが出来る」事を知って、
そこに本当の価値を置いたからです。それは、過去の自分のこだわりを完全に見切ったことです。
言い換えるなら、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着たのです。この心こそ、砕かれた心であり、
新しくされた者の心です。では、私たちの場合はどうでしょう。私たちも過去のものを見切って、
新しい中に入ったでしょうか? 私たちは自分の都合を捨てるリスクを怖がり、古い生き方に
留まるなら、パウロのような、はっきりとした信仰に立つことは出来ません。それは、キリストを
信じているとは言っても、その心は、相変わらず未信者時代と同じ古い人の中で生きているから
です。これでは信仰を現わすことが出来ないばかりか、心の中の葛藤を続けるだけで何のメリットも
ありません。パウロのように、古い生き方をスパットと見切って脱ぎ捨て、新しい人を着ること
です。そして、たとい自分にリスクが跳ね返ってくることがあっても、従っていくことを選択して
やっていくならば、「信頼して良かった。」というクリスチャンの醍醐味を味わうことが出来るの
です。
C 私たちは、これまで自分を守ろうとして肉のプライドに留まり、その結果、惨めな経験をして
きました。これらはみな、逃げの心から出たものです。しかし、それらを隠して、そこに留まって
いたら、新しい生き方の中に入って行くことは出来ません。ならば、あえて自分の弱さや失敗を
告白してしまえばいいのです。そうすれば、そこから開放されて、新しい命の中に生きて行くことが
出来るのです。こうして、我を砕いて従っていく時、召されたものにふさわしい生き方が出来るの
です。そうすれば、パウロのように「信じて良かった。」ということを味わう生涯となるのです。
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