@ 今朝は、私たちが「空っぽの器」になるためには、古い自分の個性(物の見方・考え方)を
見切り、「もう、やーめた!」と切り替えることを学びたいと思います。
A さて、私たちは、「空っぽの器に油が満たされる。」と示されてから、多くのことを学んできまし
た。そのメッセージは、その時々に応じていろいろ表現がされてきましたが、すべて同じ真理を
学んで来たのです。そして最近は、古い物差しを使うのを止め、新しい物差し(キリストの物差し)
でやっていけばいいのだ、と教えられています。それは、古い器を見切り、新しい生き方の中に歩む
ためです。それも私たちが空っぽの器になり、油が満たされるためのものです。
しかし、今なお古い自分にこだわっているのは、古い自分に愛着をもっているからです。
古い器では、キリストを証しすることは出来ません。古い自分を見切りたいと思います。
B では、「古い器を見切る」とはどういう事か、エペソの教会に起こった出来事を通して学んで
みましょう。エペソには、使徒パウロの宣教の働きを通して、イエス・キリストを信じる者たちが
多く起こってきました。そして、その多くの者たちは、自分たちのしていることをさらけ出して
告白しました。また、魔術を行っていた多くの者たちは、その書物をかかえて来て、みなの前で
焼き捨てたのです。その値段の合計は、銀貨五万枚(約五億円)にもなりました。このような事は、
彼らが、古い自分を拠り所としていたら、こんなことは出来なかったでしょう。愛着のあるもの
は、色々理由をつけて「持っていても使わなければいいだろう」とか、「焼くまでもあるまい」
とか考えがちです。ところが、エペソの人々は、持って来るだけでなく、焼き捨てたのです。ここに
彼らの、過去の拠り所を完全に見切って、ただキリストに従っていこうとした潔さが証しされて
います。彼らのこの行動は、今の私たちに大きな示唆を与えてくれます。というのは、彼らは過去
の自分を見切り、無条件に新しい物差しの世界に入ったからです。信仰には、この潔さが必要です。
ところが多くの人は、「そういう気持ちにならなければダメだ」とか、「古い自分を捨てるって
どうやったら出来るの?」とか、先のことばかり考えています。しかし、ゴチャゴチャ考えても
始まりません。ただ、潔く古い生き方は「やーめた。」と見切ればいいのです。キリストにある
新しい生き方は、まず古い魔術の書物を焼くことなのですから。
C この世にあっては、自分の都合によって心の開け閉めをするのは、当たり前になっています。
しかし、創造主の御前にあっては、そうであってはなりません。無条件に心を開き、御心に聞きした
がっていくのです。というのは、新しく生れた者は、主の考えを幼子のように聞いていくことだから
です。その歩みに必要なのは、砕かれた悔いし心だけです。
ですから、私たちへの主のお考えは、「空っぽの器になること」です。私たちはその中に入らなけれ
ばなりません。それは、聞くことが当たり前の世界です。何の解決もなかった不毛のこだわりを、
「やーめた。」と見切り、空っぽの世界に入っていきましょう。
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